キリストへの道

第9課 人生と活動

 聖書は、創造の働きが完成されたものであることを宣言しています。「神の業は天地創造の時以来、既に出来上がっていた」(ヘブライ人への手紙4章3節)とあります。しかし神の能力は、今もなお、お造りになったものをささえるために働いています。脈拍が打ち、呼吸が続けられるのは、一度動き始めた機械組織が、その固有のエネルギーによって活動を続けるせいではありません。呼吸の一つ一つ、心臓の鼓動の一つ一つは、私たちの生命と活動の創造の根源である神の守りの証拠であります。小さな昆虫から人間にいたるまで、ありとあらゆる生物は、日々、神の摂理によって生きているのであります。
 自然をささえている同じ能力が人の中にも働いています。星や微生物をみちびくのと同じ大いなる法則が人の生命を支配しています。一切の生命は神から出ています。生命の真の活動範囲は、神との調和の中にのみ見いだされます。神によって造られたすべての物にとって、条件は同一であります。すなわち生命は神の生命を受けることによって維持され、創造主の御心との調和の中に生命の営みがなされるのであります。
 このようにしてあらゆる被造物とあらゆる生活経験から教訓を学ぶ時自然の事物と生活の出来事を支配している同じ法則によって私たちもまた支配されなければならないということ、しかもそれらの法則は、私たちの幸福のために与えられているのであって、この法則に従うときにのみ、私たち真の幸福と成功と成功を見いだすことができるのであります。
 天地のいっさいのものは、生命の大法則がすなわち奉仕の法則であることを告げています。限りなき父なる神は、すべての生活の生命に奉仕しているのです。(教育より)

1.神は創造物を守りたもう

 神は、宇宙のいのちであり、光であり、喜びの源です。ちょうど太陽の光のように、また、泉からわき出る水の流れのように、祝福が神からすべての造られたものに流れ出ます。そして、神のいのちが人の心のうちに宿っていればどこであっても、愛となり、祝福となって他に流れていきます。
 わたしたちの救い主は、堕落した人間を向上させてあがなうことを喜びます。であればこそ、彼はご自分のいのちを惜しまず、十字架をしのび、恥を恥じとも思いませんでした。天の使たちもまた、他の幸福のために働きこれを喜びとしています。利己的な人々は、不運な人々、また卑しい性格の人や下層階級の人々のために働くことは恥であると思っていますが、そのような仕事を罪のない天使たちがしているのです。天に満ちあふれているのは、キリストの自己犠牲的愛の精神です。これこそ、天国の幸福の本質ともいうべきものであって、キリストに従う者がもたなければならない精神であり、しなければならない働きです。
 キリストの愛が心のうちに宿るとき、それはちょうど、かぐわしいかおりのようにかくすことができません。そのきよい感化は、この人に接するすべての人に感じられます。心のうちにキリストの精神が宿っていれば、それは砂漠の泉のように流れ出てすべてをうるおし、今にも死にそうな人にいのちの水を飲ませます。
 イエスを愛するなら、人類の祝福と向上のために、イエスが働かれたように働きたいと望むようになります。そして、天の父の保護のもとにあるすべての造られたものをやさしく愛し、同情するようになります。
 ちょうどこのような生活をしている一婦人がおられます。長年、その方の家は、慰めや助言を求める人、あるいは困難に打ちひしがれて、祈りによる慰めを求めてくる人々の訪問が絶えませんでした。彼女の顔は幸福に輝き、その唇からは救い主に対する愛の言葉があふれ出ます。彼女の無我の奉仕によって数多くの人が天来の祝福を受けてきました。今日、世界の至るところ、いずれの都市、町、村においても、私たちに必要なものは、こうした種類の愛の奉仕なのであります。

2.無我の奉仕の働き

 救い主の地上における生涯は、安楽な自己中心の生活ではありませんでした。彼は、怠けることなく熱心に失われた人類の救いのために労されました。馬槽からカルバリーに至るまで、彼は自己犠牲の道をたどり、至難なわざ困難な旅路など、いかなる労苦をも避けようとはしませんでした。彼は「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイによる福音書20章28章)と言われました。これがその生涯の大きな目的で、そのほかのことは第二義的なもの、付随的なものでした。神のみ心を行い、神のみわざを成し遂げることは救い主の食物でした。彼の働きのうちには、私心とか私欲とかはまったく見られませんでした。
 そのように、キリストの恵みにあずかった人々は、喜んでどんな犠牲をも払いキリストがいのちを与えられた他の人々も天の賜物を受けることができるようにします。彼らはできるかぎりを尽して、この世を少しでも住みよい世の中とします。本当に悔い改めた者の心には、必ずこうした精神が見られるようになるのです。人は、一度キリストに来るやいなや、イエスはいかに尊い友であるかを他の人に知らせたいと望みます。人を救いきよめる真理は、どうしても心のうちに秘めておくことはできません。わたしたちがキリストの義の衣をまとい内住する聖霊の喜びで満たされているなら、黙っていることはできないはずです。もし、主の恵みを味わい悟ることができたなら、なにか言いたくなるものです。ピリポが救い主を見いだしたときのように、他の人々を主のみ前に誘わずにはいられなくなるでしょう。そして、彼らにキリストの美と、見えざる世界の現実性について話したいと思うでしょう。またイエスがたどられた道を踏みたいと熱心に願い、周囲の人々に「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネによる福音書1章29節)を仰がせたいと切望するようになるでしょう。
 他人を祝福しようとする努力は、かえって自分の祝福となってもどってきます。神がわたしたちをあがない、計画の一部に携わらせてくださるのはこのためです。神は、人に神の性質をもつ特権を与えられましたが、これは他の人に祝福を分け与えるためです。これは神が人類に与えられる最高の栄誉であり、最大の喜びです。こうして愛の働きの共労者となる者は、創造主の最も近くにはべるのです。
 幾千年も前、アラムの軍隊がイスラエルの国と戦いましたが、後者の方が弱くアラムが勝利しました。戦利品の一部として捕虜が捕らえられ、列王記下5章(旧約聖書の第12番目の書)のしるすところによると、アラムの軍隊の長は自分の妻に仕えさせるために、一人の少女を捕らえてゆきました。記録の中にその名前は出てきませんが、ただ「一人の少女」とだけしるされています。取り立てて目立つ存在ではありませんでしたが、彼女のクリスチャンとしての奉仕の行為は、普及にとどめられているのであります。
 他国で始まった新しい生活で、彼女は寂しく、また、困難もあったに違いありません。彼女は天の神を礼拝していましたが、新しい家族は異教徒でありました。そのうちに、自分自身の憂いに加えて、他にも悲嘆のあることに気づきました。彼女の新しい家族の中に、大きな悲しみがあったのです。
 ある日、憂いに閉ざされている女主人から、彼女は悲しみの原因を聞きました。音に聞こえた戦勝の大将軍ナアマンは重い皮膚病だったのです。嘆きの中にあった主人たちをみて、彼女はどんなに胸を痛めたことでしょう。
 「ご主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば」彼女はナアマンの妻に秘密を打ち明けて言いました。「その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
 この少女の提案は、打ちのめされていた家族の心に、希望の火をともしました。大将軍ともあろう人が、このイスラエルの国から妻のしもべとして捕らえてきた「小さな少女」の言葉を信じたのです。そして預言者を捜し出して病をいやしてもらおうとしました。大ナアマンとも言われる人をして、彼女の神が、かれを助ける力を持っているということを信じさせたのは、ただ少女の日頃の生活が、愛らしさと親切で満ちていたからに違いありません。
 この出来事がどんなふうに進展していったかは、興味のあるところであります。列王記5章をお読みになる折りがあれば、この異教の人が、聖書の中にその名さえしるされていない一少女の愛の働きによって、完全に健康を回復したという物語をご覧になるでしょう。

3.祝福は無我の働きから

 神は、福音宣伝の働き、その他すべての愛の奉仕の働きを天使に任せることもできました。また別の方法によって目的を達成されることもできました。しかし、神は限りない愛をもって、わたしたちを神、キリスト、天使と共に働く者として選び、自分を忘れて働くことから来る祝福、喜び、霊的向上にわたしたちをあずからせてくださったのです。
 わたしたちは、キリストと苦しみを共にすることによって、キリストと一つになります。他人の幸福のためにする自己犠牲の行為はことごとく、与えるものの心にいよいよ情深い心を強め、「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(コリントの信徒への手紙第二8章9節)としるされている世のあがない主にいっそう近く結びつけます。こうして、わたしたちを創造なさった神の目的を果たすとき初めて、生きていることがわたしたちの祝福となるのです。
 もし、キリストがその弟子たちに望まれたように働き、主に魂を導こうとするなら、わたしたちは神についていっそう深い経験と更に広い知識の必要を感じ、飢えかわくごとくに義を慕うようになります。こうして神に求めるなら、信仰は強められ、魂は救いの泉から思う存分飲むことができます。反対や試練に会えば、かえって聖書に親しみ祈るようになり、ますます恵みとキリストの知識に成長し、豊かな経験に導かれるのです。
 自分自身を忘れて他人のために働く精神は、その人の性格に深さと落ち着き、キリストのようなうるわしさを加え平和と幸福をもたらします。彼の抱負は高められ、怠惰とか利己心の余地はなくなります。こうして、クリスチャンの美徳を実行する人は成長し強くなり、神のために働きます。彼らは、はっきりと霊的のことを理解するようになり、動揺することなく、信仰に成長し祈りに力を増してきます。神の霊が人の心にふれて働くと、それに答えて、心は美妙な音楽をかなでます。このように、他人の益のためにわれを忘れて働く者は、必ず自分の救いを完成するのです。
 恵みに成長するただ一つの方法は、キリストがお命じになった働きを自分自身を忘れてすることであって、助けを必要としている人に、わたしたちの力の及ぶかぎり助けと祝福をあたえることです。力は使えば出てきます。生きるには活動しなければなりません。恵みによって与えられる祝福を受動的に受け、キリストのためなにもしないでいながら、クリスチャンのいのちを保とうと努力している人は、働かないでただ食べてばかりいて生きようとしているのと同じです。自然界と同じように霊界でもこれではおとろえてしまうよりほかありません。手足を使わないでいれば、やがて手足を動かす力を失ってしまいます。それと同様に、神がお与えになった力を使わないクリスチャンは、キリストにまで成長しないばかりでなく、すでにもっていた力さえ失ってしまうのです。
 氷におおわれたカナダの北の地方を、犬ぞりに乗って旅している人がありました。旅行は寒く、ほとんど耐えられないほどでした。熱い毛皮に包まれていましたが寒さつのるばかり、ひどい苦痛に加えて、ついには猛吹雪に見舞われてしまいました。かれはもう助かる見込みがないのではないかと恐れ始めました。
 その時、急に犬が走るのをやめました。何かを感じたかのようでした。犬たちを先へ進ませようと、どんなに声を張り上げ、ムチを振り上げてもいっこうに効き目はありません。みるみるうちに目の前に雪の山ができてくるのをどうすることもできませんでした。犬はただ吠えては手綱を引っ張り、決して静まろうとはしませんでした。
 もはや仕方なく、男は毛皮を脱ぎ捨てて、犬どもの興奮の原因を突き止めようとしました。主人の注意を引いたと知った犬たちは、なお激しく吠えたてました。男は雪を足でかき分けていましたが、何か足下に固いものを感じました。いったいそれは何だったのでしょう。
 雪を掘るにしたがってそれが一人の男、徒歩の旅人であることが分かりました。この猛吹雪にすっかりおおわれてしまっていたのです。自分の寒さや疲れも全く忘れて、そりに乗っていた男は雪の中の男を助けようとしました。意識もなく倒れ伏している男の体を、かれはただ夢中で摩擦し続けました。初めは何の効果もないようでしたが、この無感覚な体にも、かすかながら命のいぶきがよみがえってきました。なおかれは摩擦し続けていましたが、ついにかれは生き返った男を安全に自分のそりに乗せ、さほど遠くない目的地に向かって走り出しました。
 このたびの最後の行程において、かれはもはや寒気が誘う眠気も去り、雪の中に死にかけていた男を助けようとしたことが、自分の体の血行をよくして体も温まり、命も助かったのだということをはっきり知りました。人を助けようと懸命に働いた彼の努力が、彼自身にいのちと新たな勇気をもたらしたのであります。

4.すべての人々のための働き

 キリストの教会は、人類の救いのために神がお定めになった機関であって、世界に福音を伝えることがその使命です。そして、その義務は、クリスチャンひとりびとりの肩に負わせられていて、だれでもその力、機会に応じて、救い主のご命令を実現しなければなりません。わたしたちにはキリストの愛があらわされたのですから、キリストを知らないすべての人々にそれを知らせる義務があります。神は、わたしたちのためばかりでなく、他の人をも照らすために光を与えられたのです。
 もし、キリストに従う者がみな、自分の義務にめざめるなら、今日ただ一人いるところに数千の者がいて、異邦の地に福音を宣べ伝えていることでしょう。また、直接、個人的にみわざに従事できない人は、資金によってまたは同情や祈りによって、それをささえることができます。キリスト教国にあっても、もっと熱心な努力があってよいはずです。
 もし家庭内に、キリストのために行うべき働きがあるとすれば、わたしたちは、異邦の地に行ったり、家庭から離れる必要はありません。家庭内でも、教会内でも、あるいはわたしたちと交際する人、取引する人々の間においてでも働くことができます。
 イエスは、この世の生涯の大部分をナザレの大工小屋で忍耐づよくお働きになりました。いのちの主は人から認められもあがめられもせず、農夫は労働者と肩を並べて歩かれたときにも、奉仕の天使は主に付き添っていました。イエスは、貧しい家業にいそしんでいた時も病人をいやしたり、ガリラヤ湖の荒れ狂う波の上を歩かれたときと同じように、忠実にその使命を果たされました。ですからわたしたちも、この世のどんな卑しい仕事をしていても、また、どんな低い地位にあっても、イエスと共に歩きイエスと共に働くことができます。
 使徒は「おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい」(コリントの信徒への手紙第一7章24節)と言っています。たとえば実業家であれば、誠実に仕事をして主に栄光を帰することができます。もしその人が真のクリスチャンであるなら、すべて自分の信じている宗教にしたがって事を行い、キリストの精神を人にあらわします。また、職人であれば勤勉に忠実に働いて、ガリラヤの丘で卑しい仕事に励まれたイエスを代表することができます。キリストのみ名を名のるものはだれでも、他の人がその良い行いを見て、創造主、あがない主なる主をあがめるように導かなければなりません。
 他の人の方が、自分よりもすぐれた才能と機会に恵まれているからという口実をもうけて、自分の賜物をキリストのために用いない人が多くあります。ただ特別な才能をもっている者だけが、神のため才能をささげて奉仕するよう要求されていると一般に考えられています。またするように召されてもいなければ、報いを共に受けることもないと思っている人があります。しかし、たとえには、そのようにあらわされてはいません。この家の主人がしもべたちを呼んで、おのおのに仕事を与えました。
 愛の精神をもって、この世のどんな卑しい仕事も「主に対してするように」(コロサイの信徒への手紙3章23節)することができます。神の愛が心のうちにあれば、それは生活にあらわれてきます。キリストのよいかおりがわたしたちを囲み、わたしたちの感化は他の人々を高め祝福するのです。
 神のために働くといっても、なにか大きい機会を待つ必要はなく非凡な才能などをもたなくてもよいのです。人からどんなに思われるかなどと気にする必要もありません。もし日常の生活が、その信仰の純潔、真実なことをあかしし、人々のためなにか益になりたいと望んでいることが他の人々にわかれば、その努力は決してむだにはならないのです。
 イエスのどんなに卑しい貧しい弟子でも、他の人々への祝福となることができます。彼らは自分が特別に善をしているとは少しも気づかないかも知れませんが、知らず知らずの間に与えた感化が祝福の波となり、それがますます広くますます深くなっていきます。しかもその結果は、最後の報いの日まで決してわからないでしょう。なにか大きなことをしていると感じることもなく知ることもありませんが、成功するかどうかなどと思いわずらう必要もありません。ただ静かに前進して、神が摂理のもとに与えられる仕事を忠実にすれば、その生涯はむだにはならず、魂はますますキリストに似てきます。彼らはこの世で神と働いて、やがてくるみ国でのより高い働きと変わることのない喜びにあずかるにふさわしい者となるのです。

第9課 瞑想の聖句

 「兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。」(コリントの信徒への手紙第一7章24節)
 大工、農夫、教師、漁師、パイロット、エンジニア、実業家──数えあげればきりのないほどさまざまな職業、あるいは商売があります。こうしたものはすべていろいろな方法によって類別されていて、あるものは肉体労働者、あるものは頭脳労働者と呼ばれ、また、サラリーマンなどというふうにも言われています。もちろん、私たちの好きずきによって呼び名が変わってくるのでありますが、この瞑想の聖句の言うところでは、すべての職業にたずさわる者を総じて、神に召されるもの、と名付けているのであります。
 どんな人であってもそれは問題ではありません。神はその人の生活に目的を持っておられるのであって、その人自身のために、神の立てたご計画があるのであります。つまり、天の神の思いの中に、その人の関するすべてのことがあるというわけです。
 書類のとじ込み係など全く平凡な存在で、いつまでたっても、うだつがあがらないとあるいは考えるかも知れません。
 しかし、勇気を持ってください。神はあなたを召しておられるのであります。
 工場の労働に全く疲れ果ててしまって、明日はまたこの体をどうしてささえてゆこうかと不安に思うかも知れません。しかし投げ出してしまってはなりません。神はあなたを召しておられます。
 神の、地上に生まれた子らの上に計画されたことは、すべての人に及んでいるのであります。神の愛から隠されるものは一人もありません。ひとりびとりに対してご計画を持っておられる神は、それぞれに働きを与えておられるのです。
 こうした概念は、たしかに日ごと大きな暗示となるはずであります。神の私たちの生活に対するご計画をよく知り、どんなことをする時にも、神のために、また、神のみ前にあるかのように振る舞うならば、私たちはすべてのことを注意深く、忠実に行うように気をつけるのではないでしょうか。

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