心が変化して神の子となることを、聖書では生まれると言っています。ヨハネは、この意味を明らかにするために、一つの物語をヨハネによる福音書3章1節〜5節にしるしています。
「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。『ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。』イエスは答えて言われた。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』ニコデモは言った。『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』イエスはお答えになった。『はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。』」
また、農夫のまいた良い種が芽を出すことにもたとえています。イエスは農夫の働きについて、よくご存じでありました。ナザレにお過ごしになった少年時代に、ご自分のお生まれになった町の外の田畑に働く農夫たちを、しばしばご覧になっておられたからであります。後になって説教のなかに、早くからこうして目に親しんでおられた事物を、引用なさったのであります。
ある日、群衆を前にして、イエスは語り始めました。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち・・・、ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち・・・、ほかの種は茨の間に落ち・・・、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」(マタイによる福音書13章3節〜8節)
悔い改めてキリストを信じはじめたばかりのものも同様に「生まれたばかりの乳飲み子」(ペテロの手紙第一2章2節)として「成長し」(エフェソ4章15節)キリスト・イエスにあって完成された人にまで成長しなければならないのです。また、畑にまかれた良い種のように成長して実を結ばなければなりません。イザヤも、彼らは「主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」(イザヤ書61章3節)と言っています。こうして自然界のいろいろな例があげられて、わたしたちが霊的生活の不思議な真理が理解しやすいようになっています。
1.いのちは神の与えるもの
人は多くの驚くべき物を発明しました。センサーで人を感知してドアが自動的に開閉したり、コンピュータが、人よりも数倍早い時間で、複雑な計算をやってのけたり、ロボットが手際よく動きまわったり等です。しかし、こうした機械はみな、血の通わない物で作られた物であって、その操作を始めるには電気がなければいけません。機械には、愛も、献身も、理性も─、そうです、いのちそのものも欠けているのであります。人間が多くの驚くべきことをするとはいっても、値ぶみのできないいのちの要素は、神のみから来るのです。
人間がどんなに知恵と技巧を注いでも、自然界の一番小さなものにさえ、その中に生命をつくり出すことはできません。植物にせよ動物にせよ、生きることができるというのはただ神の与えられるいのちによるのです。同じように、神から出るいのちによってのみ、霊的生命が人の心のうちに生まれるのです。人は「新たに生まれ」(英文傍注・「上より生れ」)(ヨハネによる福音書3章3節)ないかぎり、いのちを受けることができません。キリストはそのいのちを与えるためにこの世界に下られたのです。
2.成長は神の与えるもの
いのちにおけると同様に、成長においてもそうです。つぼみから花を開かせ実を結ばせるのは神です。種が生長し「まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる」(マルコによる福音書4章28節)というのは神のちからによるのです。預言者ホセアは、イスラエルについて「彼はゆりのように花咲き」「麦のように育ち、ぶどうのように花咲く」(ホセア書14章6節、8節)と言っています。またイエスもわたしたちに「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい」(ルカによる福音書12章27節)と言われました。木や花は自ら思い煩ったり、努力したり生長するのではなく、神が与えられるものによって、そのいのちがささえられ、生長します。子どもはどんなに思いわずらい、またどんなに努力しても、身の丈を延ばすことはできません。わたしたちもまったくこれと同じで、心づかいや自分の努力では霊的に成長はできないのです。植物も、また子どもたちも、周囲のものからいのちをささえるものすなわち、空気、日光、食物を受けて成長します。動物、植物にとって自然の賜物が必要なように、キリストに頼る者にとってはキリストが必要です。キリストは、彼らの「とこしえの光」(イザヤ書60章19節)「太陽、盾」(詩編84編12節)としるされてあります。また、キリストは「露のように‥‥イスラエルに臨み」(ホセア書14章6節)「牧場に降る雨となり、地を潤す豊かな雨となり」(詩編72編6節)とあります。彼は、生ける水「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるもの」(ヨハネ6章33節)なのです。
3.いのちはキリストを通して与えられる
神は、み子という比類のない賜物を与えて、ちょうど空気が地球の回りをとりまいているように、恵みの雰囲気で全世界をつつまれました。このいのちを与える空気を吸いたいと望む者は、だれでもいきることができ、キリストにあって完成された人となることができるのです。
ちょうど、花が輝かしい光線の助けをかり、美しく咲こうとして太陽に向かうように、わたしたちも義の太陽を仰いで天の光に照らされ、わたしたちの品性がキリストのかたちに似るまでに成長しなければなりません。
4.キリストにあること
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。‥‥わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(ヨハネによる福音書5章4節、5節)とのイエスのみ言葉は、これと同じことを教えています。木の枝が成長して実を結ぶのには、その幹に連なっていなければならないのと同様に、きよい生涯を送るには、キリストに頼らなければなりません。キリストを離れてはいのちも、誘惑を退ける力も、恵みと聖潔に成長する力もありません。しかし彼にあれば栄えるのです。キリストからのいのちを受けるのですから、しぼむこともなければ、実を結ばないこともなく、川のほとりに植えられた木のように茂ります。
さて、なにか自分だけでしなければならないことがあると考えている人がたくさんいます。彼らは、キリストに頼って罪のゆるしを得ていながら、正しい生活を自分の力で送ろうとするのです。しかしそうした努力はみな失敗に終わります。イエスは「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」と言われます。恵みに成長することも、わたしたちの喜びも人のために役だつこともみな、キリストと一つになるか否かにかかっています。恵みに成長するのは、毎日、毎時、彼と交わり、彼にあることによります。キリストは、わたしたちの信仰の導師であると同時に、これを実現される方です。キリストは、始めであり終わりであり、つねに居られるのです。ですからわたしたちの旅路の始めと終わりばかりでなくその道において一歩一歩、キリストにいていただかなければなりません。ダビデは「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」(詩編16編8節)と言いました。
「いったいどうすれば、キリストにあることができるのでしょうか」と尋ねる方がありますが、それは最初に主を受け入れたと同じようにしたらよいのです。「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい」(コロサイの信徒への手紙2章6節)また「わたしの正しい者は信仰によって生きる」(ヘブライ人への手紙10章38節)とあります。あなたは、自分を神にささげ、完全に神のものとなり、神に仕え、神に従い、キリストをあなたの救い主として受け入れたのです。あなたは自分では自分自身の罪をあがなうことも、心を変えることもできませんでした。しかし神に自分自身をささげ、神がこれをすべてキリストのゆえになされたと信じたのです。信仰によってキリストのものとなったのですから、また、信仰によってキリストのうちに成長するのです。これは、こちらからも与え、また、神からも受けることです。自分の心も意志も奉仕もすべてを神にささげ、神のご要求にことごとく従わなければなりません。そして、服従する力を受けるにはあらゆる祝福に満ちあふれるキリストを心に宿し、キリストをあなたの力、義、また永遠の助けとしてうけなければなりません。
毎朝、神に自分自身をささげ、これを最初の務として、つぎのように祈りましょう。「主よ、しもべをまったくあなたのものとしてお受け入れください。わたしのすべての計画をあなたのみ前におきます。どうか、しもべをきょうもご用のためにお用いください。どうか、わたしと共にいて下さって、すべてのことをあなたにあってなさせてください」と。これは毎日のことです。毎朝、その日一日、神に献身して、すべての計画を彼にお任せし、摂理のままに実行したり、中止するのです。こうして、日ごとに生涯を神のみ手にゆだねるとき、次第にあなたの生涯がキリストの生涯に似てきます。
キリストにある生涯は、平和な生涯です。感情の興奮はないかも知れませんが、いつも変わらない平和な信頼をもった生活です。自分に望みがあるのではなく、キリストに望みがあるのです。自分の弱さはキリストの力に、無知はキリストの知恵に、もろさはキリストの持久力と一つになります。するとわたしたちは自分をながめて自分のことばかりを考えないで、キリストをながめるようになるのです。キリストの愛を瞑想し、その性格の美しさ、完全さを心にとめて考えましょう。キリストの自己犠牲、キリストのへりくだり、キリストの純潔と聖潔、またその比類のない愛を魂の瞑想課題としましょう。キリストを愛し、キリストにならい完全にキリストに頼ってこそ、わたしたちはキリストのみかたちに変えられるのです。
イエスは「わたしにつながっていなさい」と言われました。この言葉は、やすみ、安定、信頼という意味を含んでいます。またイエスはわたしたちを招いて、「わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)と言われました。同じ思想を詩編記者は「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ」(詩編37編7節)と言っています。また、イザヤも、「安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ書30章15節)と言いました。このやすみは、不活動のうちにあるのではありません。というのは、救いの主の休みの約束への招待には、働きへの召しもいっしょになっているからです。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイによる福音書11章29節)。キリストにあって本当に休息できる心は、最も熱心に活動的にキリストのために働きます。
5.自己の忘失
自己のことを考えていると、心は、力といのちの源であるキリストから離れていきます。そして、悪魔は、人の心を救い主からそらそうと絶えず努力して、キリストとの一致と交わりを妨げようとするのです。世の快楽、生活上の心配事、悩み、悲しみ、他人の欠点、または、自分の欠点や不完全さ、こうしたものの全部、またはそのどれかにわたしたちの心をひこうと、悪魔は必死になっています。悪魔の策略に迷わされてはなりません。ほんとうに良心的で、神のために生きたいと望んでいる人々にさえ、悪魔は、自己の欠点や弱さのことばかり考えさせ、こうしてキリストから離して、ついには勝利を得ようと願っています。わたしたちは、自己を中心としてはたして自分は救われるかどうかと心配したり恐れてはなりません。これはみな、わたしたちの心を力の源である救い主から離してしまいます。魂を完全に神にゆだねて、神を信頼し、イエスのことを語り、考え、自分自身をキリストのうちに消失させてしまわなければなりません。すべての疑惑をすて恐怖を去り、使徒パウロとともに「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)と言いましょう。神を信じて平安でいましょう。神は、託されたものを必ず守られるのです。もし、神のみ手に自分自身をお任せするなら、あなたを愛される神は、勝ち得てあまりあるほどにしてくださいます。
キリストは、人性をおとりになったとき愛のきずなで人類をご自身に結び付けました。しかしこのきずなは、人間が故意に離れないかぎり、どんな力でも切り放すことのできないもので、悪魔はつねにこのきずなを断ち切ろうとし、わたしたちが自分から選んでキリストから離れるように誘惑をもってきます。そこでわたしたちは他に主を選ぶというような誘いに陥らないように警戒し努力して祈る必要があります。どちらを選ぶのもつねに自由です。キリストから目を離さない限りキリストはわたしたちを守ってくださいます。イエスをながめていればわたしたちは安全であって、なにものもイエスのみ手のうちからわたしたちを奪うことはできません。つねにイエスをながめることによってわたしたちは「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられてい」(コリントの信徒への手紙第二3章18節)くようになるのです。
6.初代の弟子たち
初代の弟子たちが、愛する救い主に似るようになったのも、こうした方法によったのです。弟子たちは、イエスのみ言葉を聞いて、自分たちはイエスを必要としていると感じたので、まず求め、見いだし、ついにイエスに従ったのでした。彼らは、家の中でも、食卓でも、自室でも、野外でも、いつも主と共にいました。ちょうど先生と生徒がいっしょにいるように毎日その唇からきよい真理を学びました。また、彼らは、僕が主につかえて義務を学ぶように、主を仰いだのでした。これらの弟子たちも、「わたしたちと同じような人間」(ヤコブの手紙5章17節)であって、彼らも罪に対して、わたしたちと同じようにたたかわなければなりませんでした。彼らも、きよい生活を送るには、同じ恵みを必要としたのです。
救い主のみかたちを一番よく反映したといわれる愛された使徒ヨハネでさえ、生まれつき美しい性格の持ち主ではありませんでした。彼は差し出がましく名誉心の強い人でした。そればかりでなく血気にはやって、なにか害でも受けるとすぐ怒りちらすたちでした。けれども、聖なるキリストの性格を見せられたとき、彼は自分の欠点を知りけんそんになりました。神のみ子の日常生活に接して、力強いうちにも忍耐深く、権威がある打にも優しく犯すことのできない尊厳のうちにもけんそんなその姿ながめて、彼の魂は、賞賛と愛で満たされました。日一日と、彼の心はキリストに引きつけられ、ついに主を愛するあまり、自分を忘れてしまいました。彼の怒りやすい野心満々な気質も、キリストの感化力に従い、聖霊の更正力が彼の心を新しくしました。つまり、キリストの愛の力が性格を一変させてしまったのであって、これは、イエスと一つになった確かな証拠です。キリストが心のうちに住んでくださるとき性格全体が変化し、キリストの霊、キリストの愛が心を和らげ、魂を制御し、思想や欲求を神と天にむけるのです。
キリストの昇天されたときも、彼はなお共にいるという感じを弟子たちはもちました。それは愛と光にみちた個人的の存在でした。弟子たちと共に歩み、語り、祈り、彼らの心に希望と慰めを与えられた救い主イエスは、平和の言葉を語りながら、彼らを離れて天にあげられました。天使の群がイエスをうけた後、弟子たちに聞こえたのは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイによる福音書28章20節)との救い主のみ言葉でした。イエスは、人のかたちのまま昇天しました。弟子たちはイエスが神のみくらの前にいてもなお自分たちの友であり救い主であり、また思いやり深い点においても変わりなく、悩み苦しむ人類と関係を保っていることを知っていました。イエスは、彼のあがなわれたもののために払った価の記念となった手足の傷を示されて、自らの尊い血の功績を神の前に述べているのです。弟子たちは、イエスが天に上られたのは場所を備えるためであって、再びきて、自分たちを受け入れられるのであるということも知っていました。
主の昇天後彼らは集まって、イエスのみ名によって天の父に熱心に願いごとをささげていました。厳粛なうやうやしい気持をもって頭をたれ、確証の言葉を繰り返しながら祈っていました。「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネによる福音書16章23節、24節)。「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」(ローマの信徒への手紙8章34節)という確かなあかしをもって彼らは信仰の手を高く高く延ばしたのです。こうしてキリストが、「あなたがたの内にいる」(ヨハネによる福音書14章17節)と言われた慰める者なる聖霊が、ペンテコステの時に彼らに与えられたのです。キリストは「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネによる福音書16章7節)と言われましたが、それ以来、キリストは聖霊を通してつねにその子らの心のうちに住まれるのです。こうして彼らは、この地上に主がいたときよりいっそう近く主と一つになることができたのです。内住されるキリストの光、愛、そしてちからが弟子たちから輝き出たので、人々は「驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということ」(使徒言行録4章13節)を知るようになったのです。
7.今日の私たちの特権
キリストが最初の弟子たちに対してなされたことと同じことを、彼は今日もその子らに行おうと望んでいます。それは、少数の弟子の前で祈られた最後の祈りの中で「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(ヨハネによる福音書7章20節)と言われたことによってもわかります。
イエスは、わたしたちのためにも祈り、ご自身が天の父と一つであったように、わたしたちも天の父と一つになれるようにと願われました。これはなんと貴い一致でしょう。救い主もご自身について「子は‥‥自分からは何事もできない」(ヨハネ5章19節)。「わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(ヨハネ14章10節)と言われました。もしキリストがわたしたちの心のうちに住んでくださるなら、キリストはわたしたちのうちに働いて「御心のままに望ませ、行わせ」(ピリピ2章13節)られるのです。キリストがお働きになったようにわたしたちも働き、その同じ精神をあらわすようになります。こうしてキリストを愛し、キリストのうちにあって、わたしたちは「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長」(エフェソ4章15節)するようになるのです。
第8課 瞑想の聖句
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」
赤ちゃんほどかわいいものはありません。元気のよい、天真らんまんな、そして周囲の人々に全くとんちゃくしないその様子は、言いようのない愛くるしさに満ちています。私たちは自分たちの家族にこの天からの賜物を心から喜び迎えるのです。
もし、赤ちゃんが初めに両親を無性に喜ばせた最初の言葉、「だあだあ」や「うまうま」が、いつまでたっても、はっきりした言葉にならないとしたら、両親の喜びはたちまち絶望へと変わってしまい、「この子供はいったいどうしたのでしょうか」と方々の医者を駆け回って、この質問を繰り返すに違いありません。
かわいいとは言っても、幼年時代は少年時代へ、少年は青年に、そして大人へと成長発達を遂げてゆきます。こうした成長の段階はそれぞれに美しいものであり、子供たちの中に、この成長の絶えざる変化をながめてゆくことは、両親にとって満足を味わわせるものでありましょう。
赤ちゃんが大きくなるためには、ミルクによらねばならないように、クリスチャンの霊的食物は、神の言葉の中にあります。日ごとの聖書研究によって霊の力を受けようではありませんか。そうする時に私たちは、いつまでも「生まれたばかりの乳飲み子」の状態にとどまらず、力より力へと進んで、ついにはキリストにある全き人にまで成長した男女として、神のみ前に立つ備えができるのです。
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