福音書のなかのイエス伝を読むと、そのすばらしい教えに私たちは深い感銘を受けます。また、イエスのなさった奇跡に驚異の目を見張ると同時に、イエスと共に過ごした十二人のでしたちに対して、誰しもうらやむ気持ちを起こさないでしょうか。
イエスの説教を私も聞くことができたら・・・。十二人のでしたちはなんという特権にあずかっていたことか、イエスと共に生活し、共に旅しイエスからじきじきに学んだのです。私もそこに一緒にいられたのだったらどんなによかったことか。私たちはこう言います。
ペテロやヤコブやヨハネ、また他の九人のでしたちが後にも先にもないすばらしい特権にあずかったということは否定することができませんが、それでは、今日においてはもはやイエスの弟子になることはできないかというと決してそうではありません。でしという言葉は、従う者という意味でありますから、生きる時代を異にしても、イエスとなじみから切り離されてしまうというようなことはありません。かれとの親しい交わりは、今もなお私たちの特権であります。
どうしたらイエスを知ることができますか。とお尋ねになるでしょうか。
答えは簡単です。あなたが現在なさっているその方法─聖書研究─によって、イエスとの個人的な関係を結ぶことができるのであります。
けれども、単にイエスについて知るというだけでは、あなたの心の願いは決して満たされません。あなたは、イエスを知ることをお望みになるでしょう。この二十一世紀の現代においても、あなたはイエスと親しく交わることが可能なのであります。
どのようにしてですか。驚きながら、あなたはお尋ねになるでしょう。
では一緒にヨハネの黙示録3章20節を読んでみましょう。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」
祈りを通して私たちは、イエスと親しく交わることができます。後の教課で、この祈りについてもっと深い研究をしますが、今は、現時代においても私たちは、イエスの弟子であることができ、主は天にいますが、祈りを通して、日ごとにイエスと交わることができるということを、知るだけで十分であると思います。
この教課の題目が、「弟子としての証拠」となっているのはそのためであります。私たちは罪人としての状態を認めて、罪を悔い改め、告白しました。神は私たちのいっさいの罪をゆるして、神の子として受け入れて下さいました。この線から私たちの日ごとの生活が、続けられていかなければなりません。信仰によって、神は私たちを受け入れて下さったと信じます。しかし、今、また、過去のあやまちを繰り返すようなことはないでしょうか。私たちが改心する前と同じような生活を、今なお続けてはいないでしょうか。
私たちの内面に起こっている経験が、どんなふうに外面にあらわれているでしょうか。この同じような質問に対する答えを次にあげましょう。
1.新しく造られた者になる
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じ。」(コリントの信徒への手紙第ニ5章17節)
人は、いつどこで悔い改めたか、あるいはどんな段階をふんで改心したかを、はっきりということはできないかも知れませんが、そうだからと言ってその人が悔い改めていないと言うことはできません。キリストはニコデモに、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネによる福音書3章8節)と言われました。風は目には見えませんが、風の通った結果は、はっきりと見たり感じたりすることができます。聖霊が人の心に動くのも、ちょうどそのとおりです。人の目には見えませんが、再創造の力が魂に新しいいのちを与え、神のかたちに従って新しい人を造るのです。聖霊の働きは音もなく目にも見えませんが、その結果は明らかなものです。神のみたまによって心が新たにされるなら、生活がその事実を裏書きします。わたしたちはどんなにしても自分の心を変えたり、神と調和したりすることはできません。また自己や自分のよい行いに頼ることもできませんが、心のうちに神の恵みをやどしているかどうかはわたしたちの生活に現れてきます。性格に、習慣に、いっさいの行動に変化が起こりますから、過去と現在との間にはっきりと決定的な対照が見られるようになります。人の性格はときどきの善行とかまちがいとかでわかるのではなく、日常の言行動作の傾向によって知ることができるのです。
別にキリストの力によって新たにされないまでも、外見だけは正しい行いをする人のあることは事実です。自分の勢力を張ろうと思ったり、他人からよく思われたいと望んで規律正しい生活をすることもできます。また自尊心が悪と思われることを避けることもあるでしょう。あるいは利己主義な人が、情け深い行為をすることもあるでしょう。では、わたしたちがどちらの側に立っているかをどんな方法ではっきり決めることができるでしょうか。
わたしたちの心を支配しているのはだれでしょうか。わたしたちはだれのことを考えているでしょうか。また、だれのことを話すのが好きでしょうか。わたしたちがなによりも愛情をささげ、なによりも最上の努力を傾けようとするのはだれのためでしょうか。もしわたしたちがキリストのものであれば、彼と一つ心になり、彼のことを思うのが一番楽しいこととなり、わたしたちの持ち物も、わたしたち自身もすべて彼にささげてしまいます。そして主のみかたちに似、主の霊を呼吸し、主のみ心を行い、すべてのことにおいて主を喜ばせたいと願うようになります。
2.生活のなかに見られる証拠
キリスト・イエスにあって新たに造られた者はみたまの実を結びます。つまり「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤの信徒への手紙5章22節23節)です。もはや、彼らは以前の欲望に従って歩まず神のみ子を信じてそのみ足跡にならって歩みそのご品性を反映しながらきよくいるように、自らをきよくするのです。以前にはきらっていたものを今は愛するようになり、かつて愛していたものはきらうようになります。高慢、不遜な人は、柔和、けんそんになります。酒に酔う者はそれをやめ不品行な者は純潔になります。世的なむなしい習慣や流行を追う気持ちはなくなり、「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。」(ペテロの手紙第一3章3節、4節)といわれている飾りを求めるようになります。
ですから、もし改革が起こらなければ本当に悔い改めたとは言えません。抵当物を戻し、奪ったものを返し、罪を告白し、神と人を愛するようになったなら、その人は確かに死から生に移っているのです。
過失があり、罪のあるままの姿でキリストに行き、赦罪の恵みを受けるとき、心の中に愛がわき起こります。キリストの課されるくびきはやさしいのですからすべての重荷は軽くなります。義務は喜びとなり、犠牲は楽しみになります。以前には暗黒に包まれていたように見えた道も、義の太陽に照らされて明るくなります。
キリストのうるわしい人格は、彼に従う者のうちに見られるようになります。神のみ旨を行うことがキリストの喜びでした。神の愛と栄をあらわそうとする熱情は、救い主の生涯を動かしていた力です。愛が救い主の行動をすべて美化し、高尚にしたのです。愛は神から来るものです。まだ清められていない心はその愛をつくり出すことも、生み出すことができません。それはただ、イエスが支配される人の心にだけ見いだすことができます。
「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(ヨハネの手紙第一4章19節)。神の恵みによって新しくされた心のうちでは愛が行為の原則となります。愛は性格を改変し、衝動を支配し、欲情を制し、また敵意をおさえ、愛情を高尚します。この愛が心のうちに秘められ、あたりに高貴な感化を及ぼすのです。
ここに、神の子ら−−とくに神の恵みに頼り始めた者が誤りがちなことが二つあります。これは特別に注意しなければならない事です。まず第一に、前にも述べたように自分の行為をながめ、自分の力を頼みとして神と調和しようとすることです。自分の行為によっておきてを守り、きよくなろうとしている人は、不可能なことをしようとしているのです。人がキリストなしにすることはすべて利己心と罪に汚れています。信仰によるキリストの恵みだけがわたしたちをきよめるのです。
それとは反対ですが、同じように危険なことは、キリストを信じれば人は神のおきてを守らなくてもよいという考えです。つまり、ただ信仰によってキリストの恵みにあずかるようになったのですから、行いはわたしたちの救いと全然関係がないということです。
けれども服従ということは、単なる外面だけの服従ではなく、むしろ愛の奉仕を指すのです。神のおきては神の品性そのものを表現したものであり、愛の原則を具体化したものですから、天にあっても地にあっても神の政府の基礎です。わたしたちの心が神のみかたちに似て新しくされ、神の愛が心のうちに植えつけられるなら、神のおきては日々の生活に実行されるのではないでしょうか。愛の原則が心に植えつけられ、わたしたちの心が創造主である神のみかたちに似て新たにされるとき、はじめて「わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いにそれを書きつけよう」(ヘブライ人への手紙10章16節)という新しい契約が成就されるのです。こうしておきてが心にしるされるとき、それはその人の生活を左右するのではないでしょうか。服従すなわち愛からでた奉仕と忠誠は、弟子であることの心のしるしです。聖書にも「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(ヨハネの手紙第一5章3節)「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(ヨハネの手紙第一2章4節)としるされています。人は服従しなくてもよいというのではありません。信仰−−ただ信仰だけがわたしたちをキリストの恵みにあずからせ、服従することができるようにするのです。
3.服従は信仰の実
わたしたちは服従によって救いを買うのではありません。救いは神から価なしに与えられる賜物であって、信仰によって受けるのです。服従は信仰の実なのです。「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません。御子の内にいつもいる人は皆、罪を犯しません。罪を犯す者は皆、御子を見たこともなく、知ってもいません」(ヨハネの手紙第一3章5節、6節)これがほんとうの試験法です。もし、わたしたちがキリストにあり、神の愛がわたしたちの心に内住するなら、わたしたちの感情も、思想も、行動も、神のきよいおきてに現された神の心に調和するようになります。「子たちよ、だれにも惑わされないようにしなさい。義を行う者は、御子と同じように、正しい人です」(ヨハネの手紙第一3章7節)。義とは、シナイ山で与えられた十戒に現された神のきよいおきての標準によって定められるものです。
時に、「神の律法は十字架につけられたから、もはや人は律法の下にあるのではなく、恵みの下にある」という人に出会うことがあります。ローマの信徒への手紙6章14節を誤用することによって、人間は神の律法に基づいた生活をする必要はなくなったと、信じさせようとしているのであります。
キリストを信じれば神に服従する義務はないという、いわゆる信仰は、信仰ではなく、憶測です。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました」(エペソの信徒への手紙2章8節)と言われています。けれども「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブの手紙2章17節)ともしるされています。また、イエスご自身も、この地上にこられる前に、「わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻」(詩編40編9節)むと言われ、ふたたび天にお帰りになる直前には、「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」(ヨハネによる福音書15章10章)と言われました。聖書には、「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります‥‥神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」(ヨハネの手紙第一2章3節、6節)。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(ペテロの手紙第一2章21節)とあります。
4.キリストは服従を可能にする
とこしえの命を受ける条件は、わたしたちの祖先が罪に陥る前すなわちパラダイスにいたときとまったく同じであって、それは、神のおきてに完全に服従すること、つまり完全に義であることです。もしとこしえの命がこの条件以下で与えられるものであるとすれば、全宇宙の幸福は危険にさらされ、罪の道が開けてあらゆる災と悲惨とが永久に絶えないことでしょう。
罪に陥る前、アダムは神のおきてに服従することによって、正しい品性をつくり上げることができましたが、彼はこれに失敗し、彼の罪のために、わたしたちは生まれながら罪あるものとなり、自分の力で義となることはできなくなりました。わたしたちは罪深く汚れているので、きよいおきてに完全に従うことができません。神のおきての要求に応じられる義を持ちあわせていません。けれどもキリストは、わたしたちのために逃れる道を備えてくださいました。キリストは、この地上でわたしたちが会わなければならない試練と誘惑のまっただ中で生活し、罪のない生涯を送られました。そして、わたしたちのために死に、今やわたしたちの罪を取り除いて、自分の義を与えようとしています。もし自分をキリストにささげ、キリストを自分の救い主として受け入れるなら、その生涯はこれまでいかに罪深いものであっても、彼のゆえに義とみなされるのです。キリストの品性があなたの品性の代わりとなり、神の前に全然罪を犯したことのないものとして受け入れられるのです。
こればかりでなく、キリストはわたしたちの心までも変えてくださいます。信仰によって、キリストは心の内に住まれます。こうして、信仰と、たえずキリストに自らの意思を従わせることによって、キリストの関係を維持するのです。このようにするかぎり、キリストはあなたのうちに働いて、み旨に従って、志をたて、行うことができるようにしてくださいます。そのときこそ「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)ということができるのです。ですから、キリストも弟子たちに、「話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(マタイによる福音書10章20節)と言われました。こうしてキリストがわたしたちのうちにお働きになるなら、わたしたちは、キリストと同じ精神を表し、同じ業−−正しい行為、つまり服従をするようになるのです。
ですから、わたしたち自身のうちには、なにも誇るところはなく、自己賞揚のなんの根拠もありません。わたしたちの唯一の希望は、キリストの義がわたしたちに被せられることで、それは、わたしたちのうちに働き、わたしたちを通して働いてくださる聖霊の働きによるほかはないのです。
5.真の信仰とは
わたしたちが信仰について語るとき、信仰には区別があることを心にとめておかなければなりません。つまり、ほんとうの信仰とはまったく違った一種の信仰があることです。神の存在とのその力、み言葉の真理であることは、悪魔もその軍勢も心のうちでは否むことのできない事実です。聖書には「悪霊どももそう信じて、おののいています」(ヤコブの手紙2章19節)とありますが、これは信仰ではありません。神のみ言葉を信じるというばかりでなく、神に意志を服従させ、心をささげ愛情を注いでこそ、信仰があるといえるのであって、そうした信仰は、愛によって働き、魂をきよめるのです。この信仰によって、心は神のみかたちに造りかえられます。新たにされない心は、神のおきてに従いもしなければ、実際、従うこともできないのですが、信仰によって新たにされた今は、きよいいましめを喜び、詩編記者とともに「わたしはあなたの律法をどれほど愛していることでしょう。わたしは絶え間なくそれに心を砕いています」(詩編119編67節)ということができます。そしておきての義が「肉ではなく霊に従って歩む」(ローマの信徒への手紙8章4節)わたしたちのうちに実現されるのです。
6.悔い改めた罪人への助言
世にはキリストのゆるしの愛を知り、ほんとうに神の子になりたいと望んでいながら、自分の性格が不完全で、生活にはあやまちが多いために、いったい自分の心が聖霊によって新たにされたかどうかと疑う人がいます。こうした場合に決して失望、落胆してはなりません。わたしたちは幾たびとなく、欠点やあやまちを悔いて、イエスの足もとに泣き伏すことでしょう。けれども、そのために失望してはなりません。たとえ敵に敗れても、神に捨てられ、拒まれたのではありません。いいえ、キリストは神の右に座してわたしたちのために執り成しをしています。使徒ヨハネは「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(ヨハネの手紙第一2章1節)といいました。また、「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」(ヨハネによる福音書16章27節)というキリストのみ言葉も忘れてはなりません。神は、あなたを自分自身に立ち帰らせ、自らの純潔と聖潔とをあなたのうちに反映しようと望んでいます。ただ神に従いさえすればすでにあなたのうちによいことをはじめられた神は、イエス・キリストの日までその働きを続けてくださるのです。ですから、もっと熱心に祈り、もっと深く信じましょう。自分の力に信頼できなくなったとき、あがない主の力を信じ、わたしたちを助けてくださる主を賛美しましょう。
イエスに近づけば近づくほど、ますます欠点が多く見えてきます。それは自分の目が開けて明らかになり、イエスの完全さに比べて、自分の不完全さが大きくはっきりと見えるからです。これは悪魔の惑わしの力が失われ、人を生かす神のみたまの力が働いている証拠です。
自分の罪深さを悟らない人の心には、イエスに対する深い愛もやどりません。
キリストの恵みによって造りかえられた魂は、キリストのきよい品性をほめたたえます。しかし、もしわたしたちが自分の道徳的欠陥を知らないとすれば、それは、キリストの美しくすぐれた品性をまだ見たことがないという明らかな証拠です。
自分の無価値なことを悟れば悟るほど、救い主の限りない純潔とうるわしさとがわかってきます。自分の罪深いことを知って、ゆるしを与えられる救い主のもとに走りより、魂の力なさを悟ってキリストに手をのべます、すると、キリストはあらわれ力をそえて下さるのです。必要に迫られ、キリストと神のみ言葉に近づけば近づくほど、わたしたちはキリストの品性をもっとよく知るようになり、そのみかたちをもっと十分に反映するようになります。
第7課 瞑想の聖句
「神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。」(ヨハネの手紙第一5章3節)
「母を一番愛したのはだれ?」こんな質問を題にした英詩があります。「おかあさん、あなたを愛します」こう言いながら母の首に手を回している二人の子供を描いて、この詩は歌っています。子供の一人はおかあさんに、火を燃やすためにたきぎを少し持ってきてちょうだい、と言われたことも忘れて、彼の頭は、外で待っている友だちのことでいっぱいでした。そして家の手伝いのことなど気にもしないで行ってしまいました。
もう一人の子供も、もちろん遊びたかったのですけれど、昨夜は、生まれたばかりの赤ちゃんが夜中に何度も泣いては、おかあさんを起こしていたのです。そこで彼女は言いました。「おかあさん、少し横になってお休みになっては?」
こんなやさしい思いやりに、おかあさんはどんなにうれしかったことでしょう。疲れたおかあさんが休んでいらっしゃる間に、子供は居間をかたづけて、夕食の支度を始めました。赤ちゃんが泣くたびに、おかあさんの眠りをさまさないようにと、赤ちゃんのそばへ大急ぎで飛んでゆきました。
その晩、二人の子供が寝床につく時、「おかあさん、あなたを愛します」いつもの言葉を繰り返しました。子供たちのかわいい顔を見くらべながら、おかあさんは心の中に思わなかったでしょうか。「そうね、でも誰がおかあさんを一番愛しているか知っていますよ」と。
神の子供の私たちも、天の父に対して同じように振る舞いがちではないでしょうか。「神様あなたを愛します」祈りのなかに言うそばから、自分だけの楽しみのために、出かけてしまわないでしょうか。それとも、心からの奉仕の働きによって、自分の愛を示しているでしょうか。言うまでもなく、神もまた、私たちの行為によって語る言葉を評価なさるのであります。
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