預言の声聖書講座 第2部 第12課 |
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新しい生活
1.ダビデの経験−詩篇23篇
これは神を信じるクリスチャンの経験を描写した美しい詩です。ルターはこの詩を「小聖書」とよびました。この短篇の詩は読む人に深い感動を与えるので、小さい鳥ですが、美しい歌声で人の心を慰める夜鳴鶯(ナイチンゲール)にたとえて、夜鳴鶯(ナイチンゲール)の詩ともよばれています。この詩を書いたダビデは、少年のころ羊飼いをして、牧羊者の苦しみや困難をつぶさに昧わい、羊に対する深い愛と犠牲を体験しました。彼は変化に富んだ青年時代をへて、イスラエルの王位につきました。この詩は神の霊感をうけ、彼の生活と信仰の体験に裏づけられて書かれたものです。聖書の中で詩篇の23篇がおかれている場所をみると、「わが神、わが神、なにゆえわたしを拾てられるのですか」(詩篇22篇1節)という悲痛な叫びではじまっている「十字架の詩」と、「門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である」(詩篇24篇9節、10節)という歓喜の声で終わっている「がいせんの詩」との間におかれています。ここには緑の野と静かなみぎわと草をはむ羊がえがかれています。これはクリスチャンの地上生活をあらわし、神に頼った全き平安の姿です。十字架のあがないを受けいれた者のみがこの経験に達することができ、栄光の国に導かれるのです。この詩の中に「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう」(ピリピ人への手紙4章I9節)という約束が完全に成就しているのをみることができます。 2.わが牧者 「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」というはじめの言葉は、ダビデの若い時代の経験でした。羊飼いは羊を愛し、命がけで羊を守ります。神はあなたの羊飼いです。羊飼いが羊を守るように、神はあなたを守ってくださいます。 信仰は知識以上のもので、神の存在を認めるだけでなく、神を信頼し、神にまかせることです。キリストは、「わたしはよい羊飼である」(ヨハネによる福音書10章11節)といわれました。「よい羊飼」というのは能力のある羊飼いという意味です。羊が危険にさらされたときに守ることができる羊飼いです。この宇宙をお造りになった神は、全能で私たちのすべての必要をみたすことがおできになる方です。この神が私の牧者であることを認めるならば、私たちはどんなときにも安心です。欠乏を感じることはあリません。 人生にはいろいろな悩みや困難があります。ダビデは若いとき、彼をねたむ者のために、その生命も安全ではありませんでした。しかし全能の神はダビデを守ってくださいました。彼は神を主とあがめ、神に従い、おそれを感じ失望しそうになるときも、愛の神を思い出すことによって、勇気と希望をもっことができたのです。 全能の神を牧者とする信仰をもつ者には、乏しいことはなくなり、いつも満たされた生活をすることができます。人生の乏しさのうちいちばん私たちを悩ますのは、心の乏しさです。孤独で寂しい、心のよりどころがない、将来が不安であるといった乏しさ、あるいは愛を失って傷ついた心の乏しさなど、人間が経験するあらゆる心の乏しさを神は補ってくださいます。 ダビデはまた「主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない」。(詩篇34篇9節、10節)といいました。主を牧者とする者は、物質的な乏しさからも救われるのです。キリストは山の上でなさった有名な説教の中で、次のような美しい力のある言葉を語られました。「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の烏を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが、思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす白身が思いわずらうであろう。1日の労苦は、その日1日だけで十分である」(マタイによる福音書6章25節−34節)、 3.みどりの野 「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる」。羊飼いに導かれて、青草の上にいこう羊の群れを想像してください。なんという平和な、みちたりた情景でしょうか。これは神に導かれた生活の象徴です。人間はこの世の生活で、自分の力の足りなさを感じるような場合にしばしば出合います。すべての宗教は、そのような必要をみたそうと努力していますが、、全宇宙の支配者である神に頼るとき、完全な解決をみることができます。 疲れた羊を静かなみどリの野にやすませなければならないように、人生の歩みにおいても、静かにやすんで、新しい力を得る必要があります。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)とキリストはいわれるのです。みどりの野でやすみと、ゆたかな糧が与えられ、人生の戦いに必要な力が供給されます。キリストのもとでやすむ者には、どのような試練にも耐えることのできる準備が与えられます。 パレスチナの地図をみると、川や流れが多いのに気がつきます。しかし大部分の川は雨季にはどろ水がみなぎるのですが、他の時期には水がかれます。土地も水に乏しく、羊に水を与える適当な場所は多くありません。羊飼いは羊を青草のある所で養い、夕方になる前に水を与えなければならないのです。羊は足の弱い動物なので、羊飼いはよく地理を知っていなければ、その群れをよく養うことはできませんでした。よい羊飼いであるキリストは、私たちの性質をよく知り、また人生の地理をくわしく知って、常にみどりの野、いこいのみぎわにみちびいてくださるのです。 4.主はわたしの魂をいきかえらせ 世界的に有名な心理学者ユングはクリスチャンではありませんが、「過去30年間、私の所に助言を求めにきた人々の大部分は、宗教的信仰がないことが原因になっている精神病者であった」といいました。近代生活は精神のバランスを奪いました。近代人は生活の中心を失っています。しかし神を発見するとき、人生の意義や目的が明らかになり、目標に向かって喜びに満たされた新しい生活をはじめることができます。 羊は時に盗まれたり、迷って群れからはなれることがあります。羊飼いの保護をはなれた羊は生きることができません。今日、精神的な迷える羊が多くいます。むなしい哲学や思想のとりことなって、自ら苦しみ、きずついている人がすくなくあリません。しかしキリストはどんな人にでも力と希望を与え、生かしてくださいます。 5.正しい道に導かれる キリストに従う道は必ずしも平らな道ではないかも知れません。しかしそれは正しい道です。イスラエルの王であったソロモンは、「人が見て自分で正しいとする道があり、その終りはついに死にいたる道となるものがある」(歳言16章25節)といいました。将来に対して正しい判断と選択をすることは、たやすいことではありません。しかし神の言葉は私たちに正しい道を示します。 6.死の陰の谷 「死の陰の谷」の経験がこの詩のはじめでなく、まん中にきていることは意味があります。食物と水を豊かに与えられ、休息を得、正しい道に導かれて、その後にきた経験です。クリスチャンは神より力を与えられ、いかなる道を歩むとも勇気をもって進むそなえができるのです。「死の陰の谷」というのは、最も暗い、危険な深い谷をさしたものでしょう。人生にも時々そのような死の谷を通らねばならないことが起こります。すべての人に必ずのぞむ「死の陰の谷」は死そのものです。若くて元気な時にはあまり深く考えていませんがこれに直面する時、死は真に厳粛で深刻な様相をおびて私たちに迫ってきます。時々経験する、友人や肉親の死は私たちに対する強い警告です。キリストは暗い死の谷をかえて朝としてくださいました。復活の希望は、私たちを死の恐怖よリ解放します。クリスチャンはどんな暗い経験の中にも、明るく落ちついて歩むことができます。その理由は「あなたがわたしと共におられるからです」という、神との密接な交わりがあるからてす。 7.むちとつえ むちは野獣や盗人から羊を保護する武器であり、つえは羊を導き、時にはむちをあてる道具です。これは神の保護とみちびきを意味し、また神のお与えになるこらしめを暗示しています。「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」(ヘブル人への手紙12章6節)。 8.もうけられた宴、そそがれる油 神は敵の前でも私たちを保護し、豊かな宴をもうけてぐださり、羊飼いが羊のけがを油で手当てをするように、きずついたとき、そのきずをいやしてくださいます。 最後に「わたしのいきているかぎりは必ず恵みといつくしみとが、伴うでしょう」との確信が述べられ、「わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」という永遠の国に対する希望があらわされています。神の愛に対する確信と将来のかぎりない希望に生きることは、クリスチャンの幸福です。三重苦の聖女といわれたヘレン・ケラーは日本を訪れたとき、ある会合で「神を知らなかったら、私の生涯はほんとうに暗いものであったでしょう」といって、詩篇23篇を暗唱しました。たとえ三重苦を背負っていても彼女は神とともに歩むことによって、明るい希望をもつことができたのです。あなたも、神に頼り、キリストとともに生きることによって、ほんとうに幸福な生涯を送られるように祈ります。 |
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