預言の声聖書講座 第2部 第9課

教会生活

マタイによる福音書25章に、イエスはタラントのたとえをお語りになりました。タラントというのは、古代の貨幣の単位ですが、このたとえでは、主人が僕たちにそれぞれ、5タラント、2タラント、1タラントを与えて旅に出ました。5タラントと2タラントをあずけられた僕は、それで商売してそれぞれ5タラント2タラントをもうけたので、主人は喜びました。しかし1タラントの人は、地を掘りそれをかくしておき、主人にその1タラントをかえしたのです。主人は怒って外の暗い所に追い出したというのです。このたとえは、神はすべての人に何かそれを使って奉仕ができるタラントをお与えになり、それを用いて奉仕をすることが、人生の目的であることを教えています。一般に使われている才能を意味するタレントという言葉はこのタラントからきたものです。タレントには、多いか少ないかのちがいはありますが、全くない人はありません。神は私たちが与えられたタレントを活用することを期待しておられます。教会にはいった人はこれを自覚して、与えられたタレントを用いて奉仕の生活にはいるのです。それは最もすばらしい、生きがいのある生活です。

 1.与えられたタラント

 ヨハネによる福音書3章27節に、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない」とあります。私たちのタレントはみな神より与えられたもので、私たちはそれを管理しているのです。コリント人への第1の手紙4章2節こは、「管理者に要求されているのは、忠実であることである」とあります。私たちに与えられているタレントにはどんなものがあるでしょうか、そのいくつかをあげてみましょう。

(1)時

 私たちに与えられている時は神のものです。失われた時は決してとりかえすことはできません。ですから神に対して厳粛な責任があるのです。時間をむだにしないように心がけましょう。なんのあてもないむだ話、朝、床の中で浪費する時間などを活用すれば多くのことができます。「今の時を生かして用いなさい」(工ペソ人への手紙5章16節)というのが聖書のすすめです。

 作者はわかりませんが、「人生の時計」という次の詩は、私たちの人生における時について、深い示唆を与えています。

人生の時計は、一度しかねじをまかない
その針がいつとまるかおそくか、それとももっと早くかだれも知らない
今だけがあなたの時間だ、生きよ、愛せ、
そして心をつくして働け、明日があると思ってはならない。
なぜなら
その時人生の時計はとまっているかもしれないから

(2)健康

 健康もタレントです。健康がなければ何もできません。聖書には「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリント人への第1の手紙6章19節、20節)と命じています。神のものであるからだを健康に保って、神と人とに奉仕する生活をおくりましょう。

(3)金銭

 金銭も神がお与えになる賜物です。聖書には「あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。・・・主は・・・あなたに富を得る力を与えられるからである」(申請記8章17節、18節)とあります。ともすれば私たちは、自分の力で得たお金だから、自分で自由につかってよいと思いがちですが、それは大きなあやまりです。富んでいる人は神から大きな資本を任せられたのですから、み旨にかなうようにこれを用いる義務があるのです。

 またキリストは次のようにいわれました。「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである」(マタイによる福音書6章19節−21節)。

    (イ)十分の一献金

     収入の十分の一を神にささげるという制度は、神が、お定めになったものです。レピ記27章30節に、「地の十分の一は地の産物であれ、木の実であれ、すべて主のものであって、主に聖なる物である」とあります。

     1週間のうちの定められた1日を安息日としてきよく守ることにより、神が万物の造り主であることを認めるように、十分の一を神にお返しすることにより、神が万物の所有者であることを認めることになるのです。十分の一献金は伝道事業に用いられます。キリストは十分の一献金について、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんだ、クミンなどの薬味(どれも香料に用いる植物=著者注)の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない」(マタイによる福音書23章23節)といわれました。

     キリストはここで、どんな小さなものの十分の一でも、忠実に納めることの重要さを強調なさいました。また、単に形式的に十分の一を納めるだけでなく、同時に正しい生活がともなっていなければならないことも教えられたのです。  十分の一の献金をする者には大きな祝福が約束されています。「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか、否か、を見なさいと、万軍の主は言われる。わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる」(マラキ書3章10節、11節)。

     十分の一献金について、神が祝福を与えてくださるかどうか試してみなさいといわれているのは、この献金をすることによって、神の恵みを具体的に体験することができるからです。

    (口)感謝のささげもの

     「そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ」(詩篇96篇8節)。「から手で主の前に出てはならない。あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない」(申命記16章16節、17節)。礼拝に出席するとき、感謝のささげ物をします。私たちは聖書の真理を知ることができましたが、まだ知らない人が多くいます。私たちのささげ物は、伝道事業のためにつかわれるのです。

     このほかいろいろな能力を神はお与えになりました。たとえば、家庭で主婦がいろいろな仕事をする能力もりっぱなタレントです。私たちに与えられているタレントはすべて自分勝手につかうのではなく、神のみ旨にしたがって、神と人とのために用いなければなりません。そうするときに、私たちのタレントものびていき、ほんとうに満足な、生きがいある生涯を送ることができます。

2.教会の儀式

(1)バプテスマ

 バプテスマは教会員になるときに行われる式です。

    (イ)バプテスマの意味

     ローマ人への手紙6章1節から4節までに、バプテスマの意味が、次のように説明されています。「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。バプテスマの式には「キリストの死と葬リとよみがえり」とが示されています。そして、バプテスマを受けることは、キリストを信じた者が象徴的な意味で、キリストと共に「死に、葬られ、かつよみがえらせられる」ことをあらわすのです。すなわち、これを受ける者は、救い主が自分の罪のために死んでくださったことを信じて、過去のいっさいの罪をゆるされ、すべての汚れから洗い清められます。そればかりでなく、主と共に水の墓場に葬られることにより、罪と世俗には死んだ者、今後は二度と罪に仕えない者になったことを言い表します。そして、水から上がるとき、彼はキリストと共に生まれ変わった新しい人として出てくるのです。このように、バプテスマは罪人が罪に死んで葬られ、同時に生まれ変わって新しい人になったことを、神と人とに公表するために行われます。

    (口)バプテスマの形式

     今日の教会で、主として行われているバプテスマの形式は、全身を水に浸すのと頭に水を注ぐのとです。聖書の記録によると、「ヨハネもサリムに近いアイノンで、バプテスマを授けていた。そこには水がたくさんあったからである。人々はぞくぞくとやってきてバプテスマを受けていた」(ヨハネによる福音書3章23節)とあります。ヨハネが授けたバプテスマには、たくさんの水が必要でした。数滴の水を頭に注ぐだけならば、多くの水はいらないはずですから、ヨハネは全身を水に浸すバプテスマをほどこしていたことがわかります。また、「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた」(マタイによる福音書3章16節)とあり、キリストはヨルダン川で全身を水に浸すバプテスマをお受けになったのです。これが正しいバプテスマの形式です。頭に水を注ぐだけでは、葬りの意味をよくあらわすことはできません。

    (ハ)バプテスマを受ける資格

    「すると、ペテロが答えた、『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとリびとりが罪の許しを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい』」(使徒行伝2章38節)。「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる」(マルコによる福音書16章15節、16節)。 バプテスマを受けるには……

     バプテスマを受けるにはまず犯した罪を認め、罪のために悲しみ、その罪を告白し、その罪から離れなければなりません。また神にざんげするばかりでなく、もし迷惑をかけた人があるならば、その人に直接罪の許しを請わねばなりません。キリストの教えを知り、キリストの救いを信じ、罪を悔い改めることが自分でできる年齢に達した者が決心し志望する時に、はじめてバプテスマはさずけられるものです。

     バプテスマについておちいりやすい誤りは、十分に真理を知らないで早く受けようとするのと、完全な品性に達するまで待とうとすることです。多くの人がバプテスマを受けたあと再び罪を犯しはしないかと不安を感じます。しかし神は私たちの弱さを知り、必要な力を与えてくださいます。またもし再び罪をおかしても、悔い改めて神にかえるならば、ゆるしてくださいます。バプテスマを受けて教会に加わった者は、お互いに愛をもって、キリストの弟子としてふさわしい奉仕の生活にはいります。これは神の助けによってできるのです。祈りと聖書研究、教会に忠実に出席すること及びキリストから受けた恵みをつねに他の人にわけ与えることは、クリスチャンの喜びに満ちた生活です。

(2)洗足・聖さん式

    (イ)洗足式はキリストを信じる者が、お互いに足を洗う式で、聖さん式の前に行います。この儀式制定の由来は、ヨハネによる福音書13章1節から17節に出ています。このときキリストの弟子たちの間には、自分たちの中でだれがいちばん偉いかという争いが起こっていました。彼らが最後の晩さんをするため部屋にはいったとき、ユダヤの習慣であった足を洗う僕がいませんでした。しかし弟子たちはだれも人の足を洗おうとはしなかったのです。そこでキリストは自ら彼らの足をお洗いになりました。このことによってキリストは謙遜と無我の奉仕を教えられたのです。また彼らの心のけがれを洗いきよめようとなさったのです。キリストは「わたしが、あなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」(ヨハネによる福音書13章15節)といわれました。わたしたちも今日この式にあずかるとき、謙遜と奉仕の教訓を学び、キリストの模範にしたがって生活する決心を新たにするのです。またこの式はバプテスマのあとおかした罪のきよめを意味しています。

    (口)聖餐式

     これはキリストが人の罪をあがなうために死なれたことを記念する式です。パンとブドウ液をいただきますが、これは罪人のためにさかれたキリストのがらだと流された血を意味するものです。コリント人への第1の手紙11章23節より26節までに「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい』。 食事ののち、杯をも同じようにして言われた。『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである」とあリます。キリストのからだを象徴するパンをいただくことは、キリストの死を記念すると同時に、私たちが、キリストと一つになることを意味しています。全くキリストとともになって、キリストとともに歩む決心をあらわすのです。しかし自分の決心だけではこのことはできません。神の力が必要です。聖書の中て血は生命をあらわしています。キリストの血はキリストの生命です。信仰をもってキリストをうけいれるときその生命をうけ、私たちがキリストとともに歩むことができる力が与えられるのです。またこの儀式はキリストの死を記念するばかりではなく「それによって、主がこられる時に至るまで」といわれているように、キリストの再臨に対する待望をもあらわすものです。


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