預言の声聖書講座 第2部 第6課

フランスの文豪ピクトル・ユゴーは、「人間は刑期を定められていない死刑囚である」といいました。人間はだれも死をまぬがれることはできません。ただその時がわからないのです。評論家の荒正人氏は「現代人にとって、死は必ずしも老人の関心に留まるものではない。青年の病死や自殺は僅少な例外としても、私たちの外部から突然に、また、緩慢に押しよせて来る死にかこまれている。戦争と革命は、死と同義語である。原子爆弾や政治裁判は万人の脅威である。各種の公害は、平和に暮らしている市民たちを死の世界へ引きずり込もうとしている。20世紀後半に生きながら、死神の大嫌を心に浮かべることのない者は、馬鹿か気違いだけであろう」と書いています。現代に住む私たちは死と非常に近いところで生きているのです。聖書は「罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙6章23節)といい、死は人間の罪の結果であると説明しています。私たちは死ぬとどうなるのでしょうか。聖書の中にその答えを求めてみたいと思います。

1.生と死

 死後はどうなるかという問題は、人間の本質を理解しなければわかりません。聖書は人間がいかにして生命を与えられたかを説明しています。すなわち創世記2章7節に、「主なる神は土のちリで人を造り、命の息をその鼻の穴に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とあります。これはまことに素朴な言葉ですが、人間が自分としての意識を与えられ、生きた者としての活動をはじめるようになった過程を明瞭に説明しています。

 まず人間の体は、酸素・炭素・水素・窒素・カルシウム・燐・カリウム・ナトリウム・塩素・硫黄・マグネシウム・鉄等の元素からできていますが、これらはみな土の中にあります。神は人間の体を土の中にあるこのような元素でお造りになりました。そこに神が生命の、息を吹きいれられてはじめて人は生きたものとなりました。すなわち生命の活動がはじまり、個としての意識が生じたのです。

 ヨブ記33章4節には「全能者の息はわたしを生かす」とあります。この生命の息について伝道の書3章19節には、「人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の−息−をもっている。人は獣にまさるところがない」とあり、人間も獣もみな同様の生命の−魂−をもっているといいますが、生命の息は心や魂というものではないことがわかリます。

 死においてはこれと反対のことが、起こるわけで、ヨブ記には、「わたしの息がわたしのうちにあり、神の息が、わたしの鼻にある間、わたしのくちびるは不義を言わない、わたしの舌は偽りを語らない。・・わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない」(ヨブ記27章3節−5節)とあり、詩篇104篇29節には「あなた(神)が彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちリに帰る」。また、詩篇146篇4節には、「その息が出ていけば彼は土に帰る」と書いてあります。

 人間は神よりきた生命の息がある間、生きた者として意識があり、活動しますが、この−息−が取り去られると、意識を失い、体は土のちりにかえっていくのです。その状態は電球に電流が通じて光が発生するのにたとえることができます。物質としての肉体を電球とすれば命の息は電流にあたります。この二つが結合すると「生きたもの」に該当する光が出てくるのです。もし電流が絶えれば電球だけが残って光はなくなります。そのとき光はどこかへ行ったのではなく、光そのものが存在しなくなるのです。人間についても同じことが言えるわけで、電流にあたる命の−息−がなくなって死ぬと、残るのは電球にあたる生命のない肉体だけで、それ以外のものは何も残らないのです。

2.死の状態

 生命の息がとりさられると、人間の意識はなくなるので、聖書は死の状態を眠りという言葉で表現しています。「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みをもたない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである」(テサロニケ人への第1の手紙4章13節)。

 ある時キリストが愛しておられたラザロという人が病気で重態になりました。彼の姉妹マルタとマリヤはキリストに助けを求めました。聖書によるとこの知らせをお聞きになったキリストはなお2日そのおられたところに滞在してから、ようやくラザロの家へ向かわれました。その間にラザロは死にました。出発にあたってキリストと弟子たちのあいだには、次のような会話がかわされました。「彼らに言われた、『わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く』。すると弟子たちは言った、『主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう』。イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、『ラザロは死んだのだ』」(ヨハネによる福音書11章11節−14節)。キリストが「眠っている」といわれたのは死のことであったことは明らかです。

したがって死の状態においては、「彼の子らは尊くなっても、彼はそれを知らない、卑しくなっても、それを悟らない」(ヨブ記14章21節)、また、「その日には彼のもろもろの計画は滅びる」(詩篇146篇4節)のです。

 また、伝道の書9章5節、6節には「生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、永久にかかわることがない」とあリます。

 これは第一の死で、私たちが完全に眠っている時のように無意識の状態になるのです。しかし眠りにはさめる時かあるように、この死には復活があります。第一の死は、人間の祖先が罪をおかした結果としてすべての人におよんだのです。また聖書には第二の死があると書いてあり、この死は罪を悔い改めなかった人が死んだ後再びよみがえらされて最後に滅ぼされることです。

 今日のキリスト教では一般に、人が死ぬとすぐ天国に行き、また霊魂は不滅であると信じられています。しかし聖書によれば、体をはなれた霊魂が存在したり、死ぬとすぐ天国に行くということはないのです。

 今日世界で最もよく知られている神学者のひとりであるオスカー・クルマンは、「魂の不滅か、死者の復活か」とい小さい本の中で、聖書を土台として、死んだ人はどうなっているかという問題に答えました。この本の中でクルマンは、人が死んですぐ天国に行くとか霊魂の不滅という考えは一般に広く受けいれられているが、これはキリスト教の最大の誤解であると言っています。

 どんな信仰のあついクリスチャンでも、死後直ちに昇天するということはありません。イスラエルの王であったタビデについて、「彼は死んで葬られ、現に墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。……ダビデが天に上ったのではない」(使徒行伝2章29節、34)と書いてあります。

3.クリスチャンの希望

 死んで眼りの状態にはいったあと、いつまでもこの状態がつづくのではありません。聖書は復活の事実を教えています。かいこは繭をつくってその中でさなぎになリ、無活動の状態にはいりますが、時がくると蛾となって再び活動の世界にかえってくるように、人間もいつまでも眼りの状態を続けるのではありません。もう一度生命の息を与えられてよみがえらされるのです。キリストが復活なさったことは、私たちも復活することができる保証です。

 聖書は、二通りの復活について述べています。「墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう」(ヨハネによる福音書5章28節、29節)。

 第一の復活はキリスト再臨のときで、義人が生命を受けるためによみがえり、第二の復活は千年期のあとで悪人がさばさを受けるためによみがえるのです。人間の死は罪の結果ですが、神は救いの計画をお立てになり、キリストの十字架による身代わりの死によって、救いの道をお開きになりました。そこで罪を悔い改め、キリストを信じる人に、神は永遠の生命を与えてくださいます。しかしこれを信じ受けいれない人々は、よみがえらされたあと、自分の生涯において行ったすべてのことについて神のさばきを受け、永遠の滅びにいたるのです。

4.死人の霊の正体

人は生命の息が出ていけば無意識になるので死人の霊と自称するものが現れて、いかにも実在しているかのようにふるまい、不思議なことをするのは欺きです。終末時代におけるこのような不思議なしるしについて「これらは、しるしを行う悪霊(英訳悪魔)の霊であって」(ヨハネの黙示録16章14節)と書いてあります。悪魔については「偽り者であり、偽リの父」(ヨハネによる福音書8章44節)と書いてあります。悪魔には無数の部下がおります。彼が神に反逆したとき、「悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された」(ヨハネの黙示録12章9節)と書いてあります。心霊術で故人そっくりの声やしぐさをするのは、生前のすべてを知っている悪天使が故人をまねているにすぎません。決して死人の霊が現れるのではなく、悪魔の使いが出てくるのです。

 心霊術についての神の警告

 聖書には死者との交通について次のような警告が与えられています。「魔法使の女」は、これを生かしておいてはならない」(出エジプト記22章18節)。「あなたがたは口寄せ、または占い師のもとにおもむいてはならない。彼らに問うて汚されてはならない」。「男または女で、口寄せ、または占いをする者は、必ず殺されなければならない」(レビ記19章31節、20章27節)。

 心霊術をとおして行われることや、語られることには恐ろしい欺きがかくされています。神は「これを生か、しておいてはならない」と言われるほどおきらいになるのです。

5.近代心霊術の復興

 近代心霊術のおこリは、ヨーロッバです。ドイツやスイスあたりで霊との交信がみられましたが、まもなく大陸全体にひろがリ、英国にもわたり、1847年ごろには、一般の関心を集めるようになリました。

 ちょうどそのころ米国では、ニューヨーク州のハイデスヒルに住むフォックス家で不思議なことが起こっていました。1848年3月31日のことです。フォックス夫妻と娘のマーガレッタとケティの4人は、新しい家を建築中だったので、仮小屋で生活していました。その晩彼らは不思議な音で目をさましました。それは戸をたたく昔でした。12歳になるケティが「幽霊さん、私のするようにしてごらん」といって手をたたくと、それに対して応答がありました。次にケティは指を何本か出して、「この指の数をいってごらん」というとその通リ合図をしました。15歳のマーガレッタは「この霊は私たちのことを聞いているばかりでなく、見ているのだわ」といって、「今度は4まで数えてちょうだい」というと、その音は正しく4まで数えました。フォックス夫人がその昔に自分の子供の数とその年齢をたずねると、これにも正しく答えたのです。このようにして交信の方法がわかり、この音は、そこで殺されて、死体を地下に埋められた行商人の霊で、自分が殺されたことや、彼の霊はなお生きていることを人々に伝えるために霊媒を求めているといわれました。はじめ一般の人々は、これは何かのトリックで、すぐ消えてしまうだろうと思いましたが、6年という短い期間に心霊術は全米にひろがったのです。そして、1894年には、全世界で6000万の信者がいるというほどになリました。

6.終末の前兆としての心霊術

 キリストは終末時代に「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう」(マタイによる福音書24章24節)と予告なさいました。サタンは「光の天使に擬装する」(コリント人への第2の手紙11章14節)ことができます。彼はまた「人々の前で火を天から地に降らせることさえ」(ヨハネの黙示録13章13節)すると言われています。聖書は「後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教とに気をとられて、信仰から離れ去るであろう」(テモテヘの第1の手紙4章1節)と預言しています。今日、心霊術の働きは全世界にひろまっています。悪魔の欺きにおちいらないようにするために聖書は「愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうかためしなさい」(ヨハネの第1の手紙4章1節)とすすめています。またイザヤ書8章20節には「おしえとあかしに尋ねなければならない。もし、このことばに従って語らなければ、その人には夜明けがない」(新改訳)といっています。「おしえとあかし」というのは聖書全体のことです。どんな不思議なことをしても、もし聖書に照らしてみて、ちがっていれば、それは神より出たものではありません。悪魔に欺かれないようにするためには聖書をよく研究することが大切です。


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