預言の声聖書講座 第1部 第9課

 イエス・キリストは今から約2000年前、ユダヤのベツレヘムに生まれました。

 イエスがある時、弟子たちに、「あなたがたはわたしをだれと言うか」と問われたとき、シモン・ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(マタイによる福音書16章15、16節)と答えました。

イエス・キリストはすぐれた聖人の1人であるというだけでなく、神であるということは、イエスと共に生活した人々の信仰であり、聖書を学ぶとそのことがわかります。

 イエスというのは、ギリシア語で、ヘブル語のヨシュアにあたり、「神は救いである」という意味です。

 キリストというのはやはりギリシア語で「あぶら注がれた者」という意味で、へブル語のメシヤにあたります。ユダヤでは預言者や祭司または王がえらばれたとき、こうべにあぶらを注ぐ儀式をしました。

1.誕 生

 イエスの誕生という世界歴史の最も大きな意味をもった事件、人類全体に最も深い影響を及ぼした出来事は、今から約2000年前、ユダヤ(現在のイスラエル)のベツレヘムという小さな村で起こりました。

 その時、この出来事は、わずかの人にしか知られませんでした。人々は忙しく生活に追われて、この出来事の重大さに気がつきませんでした。ベツレヘムの町は、国勢調査のために故郷に帰る旅人の群れで、ごった返していました。貧しげな、若い2人の旅行者ヨセフとマリヤをかえりみる人はなく、かれらはやっと馬小屋をみつけて、その一隅に宿ったのですが、その夜イエスはそこでお生まれになったのです。

 イエスの誕生のいきさつについて聖書は、次のように述べています。「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になつた。夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである』。すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、『見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』。これは『神われらと共にいます』という意味である。ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた」(マタイによる福音書1章18-25節)。

 救い主降誕のおとずれは、ベツレヘムの近くの野で夜、羊の群れを守っていた羊飼いたちにつたえられました。彼らは約束の救い主のことを語り合っていたのです。罪を犯して神からはなれた人類は、罪の結果起こったいろいろな苦しみや悩みの中にあえぎながら、もっとよい世界をのぞんでぎました。神は人類を救うために、神の子キリストを地上におつかわしになる計画をお立てになりました。その計画は、預言者を通して、各時代にわたって、人類の希望のおとずれとして語られてきたものでした。羊飼いたちは人類の問題の解決者であり、生活に希望と力となぐさめを与え、人間を罪と死から救ってくださる救い主がおいでになることを願っていました。その時、天の使いがあらわれました。聖書の記録によると、「すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、『恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうタピデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである』。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、『いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように』。」(ル力による福音書2章9-14節)ユダヤの野にひびき渡ったこの賛美の中に、イエスを通して与えられる祝福と平和が告げられています。イエスを心に迎える時に、すべての波風はおさまって、平安が得られます。キリストの精神の支配するところでは、争闘はそのあとをたち、本当の平和が与えられるのです。

 イエスは人類を死より解放する道を開いてくださいました。マタイによる福音書4章16節には「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」とあリます。

羊飼いたちはベツレヘムの馬小屋で、救い主キリストを拝しました。

 東の国の博士たちも、おさなごキリストを拝しました。彼らは学者であり、富裕な階級に属し、社会的にも有力な人々で、熱心に真理を求めていました。彼らは星について研究し、輝く星の軌道のうしろに秘められた神のみ手をながめていました。彼らは聖書もしらべました。ベツレヘムに神の栄光がみちあふれたあの夜、彼らは天に不思議な光を認めました。その光が消えさった時、明るい星があらわれ、空にかかっていましたが、それは惑星でも恒星でもありませんでした。そこで聖書をしらべて、「ヤコブから一つの星が出、イスラエルから一本のつえが起リ」(民数記24章17節)という言葉を見いだし、星をたよりに救い主を拝するために出かけたのです。当時の最高の知性をもった人々も、名もない羊飼いも等しく、イエスを拝して喜びにみたされたことは、イエスがすべての人の必要をみたしてくださることをあらわしています。イエスの降誕は「すべての民に与えられる」喜びのおとずれでした。キリストの降誕を記念するクリスマスは今日世界のどこに行っても、守られています。

2.イエス・キリストはどんな方か

(1)その神性

 イエス・キリストは肉体をとって、人間と同じ生活をなさいました。イエスは自分をしばしば「人の子」とお呼びになリました。イエスは人間の模範として、人間と同じ条件のもとで、神の律法に従う生活をなさいました。イエスの生活は、彼の教えを完全に具体化したものでした。聖書はイエスが人であると同時に神であったことを強調しています。「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であって、その力ある言葉をもって万物を保っておられる。」「御子については、『神よ、あなたの御座は、世々限りなく続き、あなたの支配のつえは、公平のつえである』」(ヘブル人への手紙1章3、8節)。

 イエスは完全に人間の性質をそなえておいでになりましたが、また神の子であリ、神の性質をそなえておいでになったのです。ピリポが「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」といったとき、イエスは「わたしを見た者は、父を見たのである」(∃ハネによる福音書14章8、9節)といわれました。イエスは父なる神の姿を示すために、地上におくだりになったのです。神というと遠い感じがしてつかみにくいですが、イエスの生涯をみると、神はどんな方かがはっきりわかリます。

「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである(∃ハネによる福音書20章30、31節)。すなわち福音書の書かれた目的は、イエス・キリストが神の子であることを信じる人々に救いを得させることでした。またイエス・キリストは「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである(∃ハネによる福音書5章39節)といわれました。聖書を学ぶことによって、イエスが神の子であることがわかります。

 新約聖書のはじめにある四つの福音書は、地上におけるイエス・キリストの生涯の記録です。そこにイエスの、一つの汚点もない完全な品性をみることができます。

 イエスを知らないといって裏切ったペテロに対して愛の眼をおむけになったこと、銀貸30枚をもってイエスを売ったユタが、人々をみちびいて捕らえにきた時にも、「友よ」と呼びかけられた寛容さ、十字架につけて、ちょう笑している人々のことを、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです(ルカによる福言書23章34節)とお祈りになった言葉のうちに、神の子の尊い姿をみることができます。

 また「山上の垂訓(マタイによる福音書5章-7章)と呼ばれている有名な説教をはじめ多くの説教や、たとえ話、教訓をお与えになりましたが、その一つ一つに神の知恵が輝き出ているのを感じます。どんな時代にも、いかなる環境にも、決してすたれることのない不変の真理が語られています。「天地は減びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない」(マタイによる福昔書24章35節)といわれたように、これらの言葉は今日においても、なやみの多い人生のともしびとなって、人々の心を慰め、正しい道を教えています。

(2)先在

 ヨハネによる福音書には、イエスは「言」であるといわれています。「言」が人の考えをあらわすように、イエスは神をあらわす「言」でした。この「言」は世のはじめからあり、創造のわざにもあずかったのです。そして時がきたとき、この「言」は肉体となつて人間の間に住まわれたのです。次の聖句を読んでください。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった(∃ハネによる福音書1章1一3節)。そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(14節)。

「御子(イエス・キリスト=著者注)は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成リ立っている」(コロサイ人への手紙1章15-17節)。これらの聖句からイエスは世のはじめから存在しておいでになったことは明らかです。このことをイエス・キリストの先在といいます。

3.イエス・キリストと預言

 イエスが神であったことを証拠だてるもう一つのことは、イエスの地上生涯について、旧約聖書に多くの預言があることです。その一部は8課で学びましたが、それは、イエスのお生まれになる時、場所、民族及び、どんな目的で地上におくだりになるかなどに関するものでした。

 ここではほかの預言とその成就について、聖書を読んでみたいと思います。

 東の国の博士たちがイエスを拝して帰ったあと、ユダヤの王ヘロデは、イエスが王としてお生まれになったと聞いてイエスを殺そうと思い、ベツレヘムとその付近の2歳以下の男の子をことごとく殺しました。イエスはその前に、エジプトにのがれて行かれたので無事でした。この出来事について、エレミヤ書31章15節に次のように預言されていました。「主はこう仰せられる、『嘆き悲しみ、いたく泣く声がラマで聞える。ラケルがその子らのために嘆くのである。子らがもはやいないので、彼女はその子らのことで慰められるのを願わない』」。

 預言者イザヤはイエスの前に、その先駆者があらわれて、イエスの働きの準備をすることを預言しました。その先駆者になったのは、バプテスマのヨハネです。神にえらばれて、救いの計画を全世界につたえる使命をになっていたユダヤ民族が、イエスをいかに迎えるかについて、「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」(イザヤ書53章3節)と預言されていましたが、ヨハネによる福音書1章10節、11節には、「彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」とあります。

 十字架におつきになったイエスの衣について、「彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする」(詩篇22篇18節)と預言されていましたが、マタイによる福音書27章35節には、「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け」と、この預言も成就したことを記録しています。このほか多くの預言が全部的確に成就したことは驚くべきことです。ある人はこれらの預言はキリストのあとに書かれたものではないかといいましたが、旧約聖書が西暦紀元前に書かれたことについては疑う余地はないのです。


Copyright (C) 2001 by VOP Japan at Japan union conference of Seventh-day Adventist church. All Rights Reserved