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預言の声聖書講座 第1部 第5課 |
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幸福な生き方-その1
1.幸福な生活のために 神は人間が本当に幸福な生活ができるために、その方法を10にまとめてお示しになりました。出エジプト記20章3節から17節までに記されている十戒(じっかい)です。この律法を守ることは喜びであり、幸福につながってくるのです。詩篇119篇1節には、「おのが道を全くして、主のおきてに歩む者はさいわいです」とあり、165節には、「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」とあります。 この十戒は二つの部分からできていて、はじめの四つは、人間が神に対してどうしたらよいかを教え、あとの六つは、人間との関係において守るべき戒めです。この課では第1条から第4条までを考えてみたいと思います。 2.だれを拝むか 十戒の第1条は「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト記20章3節)です。 人間はいろいろな神をおがんできました。その中にはよい神だけではなく悪い神もあって、ある場合には悪い神を特に大事にすることもあります。ナイアガラの滝に毎年若い娘を流したという話があります。滝の神をなだめるためでした。日本にもいろいろな神があります。その中には私たちの先祖をまつったものもあれば、特定の動物をおがんでいる場合もあります。 このいましめにある神はどんな神かということは、第4条をみるとわかります。そこに「主は6日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、7日目に休まれたからである」(出エジプト記20章11節)とあり、この神は、世界をおつくりになった方です。イザヤ書40章26節に「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は数をしらべて万軍をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」とあり創造者である全能の神だけが、私たちの拝む対象となるということです。これは当然のことで、私たちが今ここに存在しているのは、この神の力により、またこの神のみこころと計画によるのです。この神をはなれては、私たちの存在もないのです。この神は全能でまた愛の神です。創造者である神にたより、神にしたがっていけば、すべての必要も満たされ、平安な生活をおくることができます。イザヤ書40章28節から31節までに「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果ての創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない」とあり、神は人生のどんな経験の時にも、私たちの強力な支えとなってくださるのです。 金属でつくった偶像について聖書は、「彼らは袋からこがねを注ぎ出し、はかりをもって、しろがねをはかり、金細工人を雇って、それを神に造らせ、これにひれ伏して拝む。彼らはこれをもたげて肩に載せ、持って行って、その所に置き、そこに立たせる。これはその所から動くことができない。人がこれに呼ばわっても答えることができない。また彼をその悩みから救うことができない」(イザヤ書46章6、7節)と述べています。 このほかにも人間の拝む偶像があります。ピリピ人への手紙3章19節には「彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである」とあり、自分の腹を神とするというのは、自分の考えや欲望を第一とし、それにつかえていくことです。第2次大戦において貧困におちいった日本人は、戦後物質的繁栄を目標に努力してきました。しかしその繁栄のなかで何を得たでしょうか。神を見失った生活には、本当の平安はないのです。 アウグスチヌスは、「人間は神によってつくられたので、神にかえるまで平安はない」といいました。神を第一にすることは、幸福な生活の土台です。 3.いかに拝むか 「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、3、4代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、1000代に至るであろう」(出エジプト記20章4から6節)。これが第2条のいましめです。第1条のいましめは礼拝の正しい対象を教え、第2条はまことの神を拝む方法について教えています。すなわち、いろいろな像を刻んでそれをとおして神を拝むことを禁じています。どんな像を刻んでも全能の神を正しくあらわすことはできません。目でみえる形のあるものを拝んでいると、それにひかれて、本当の神の姿がわからなくなってしまいます。 まことの神は肉眼にはみえませんが、神の言葉である聖書に導かれて、心を神にむけ、祈りや、讃美によって神を拝み、神と交わることができます。それが本当の礼拝であり、神はそのような礼拝を求めておいでになるのです。 この戒めにはちょっとわかりにくいところがあります。その一つは神が「ねたむ神である」という言葉です。ここでいうねたみは人間のねたみとはちがって、人間に対する神の愛の深さをあらわす言葉です。他のものの介入を許すことができない強い愛をあらわしています。また「わたしを憎むものには、父の罪を子に報いて、3、4代に及ぼし」というのは、遺伝と環境の影響が子孫につたわることを述べていますが、人間の道徳的責任は、その人だけのものであって、先祖の悪の責任を負うということではありません(エゼキエル18章2から18節参照)。それにひきかえ、善の影響は神の祝福によっていつまでもつづくのです。ここにも人間に対する神のあわれみ深い取り扱いがみられます。 人間がきざむ偶像について、もうすこし考えておきたいと思います。まことの神よりほかのものに、私たちの心を注ぎ、それを心の中心におくならば、それはみな偶像をつくることになります。たとえば、自分の理性を神の上におけば、それは偶像になります。自己を心の中心におくこともでき、またほかの人をそうすることもできます。自分の子供や恋人が偶像になることもあります。 いろいろなたのしみや欲望が心を占領することもあり、流行にとらわれ、また富が偶像になることもあります。信仰生活の中心は、神との直接の交わりで、その間に何物も介入させてはならないのです。そうすることによって私たちの生活には、動かない中心ができ、本当の心の支えが与えられるのです。 4.神の名 十戒の第3条は「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう」(出エジプト記20章7節)です。これは神に近づく態度を教えています。神の前に、けいけんな態度をとることによって、神の臨在を感じることができます。神の名は、神の品性のあらわれですから尊ばなければなりません。日本語にはないのですが、外国では神という言葉をのろいやちかいの言葉に用いることがあり、それは神の名をけがすことになるのです。神の名は常にきよい、けいけんな気持ちで唱えなければなりません。 5.仕事と休み 第4条の戒めは「安息日を覚えて、これを聖とせよ。6日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。7日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は6日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、7日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」(出エジプト記20章8から11節)です。 私たちが使っているいろいろな時の区ぎりは、たいてい天体の運動からきています。1日は地球がその軸のまわりを1回転する時間、1か月は月が地球を1回まわる時間、1年は地球が太陽を1回転する時間からきています。しかし1週間すなわち7日という時の区ぎりは、自然界にはありません。しかも7日という時の単位は非常に古くから用いられていたことがわかっています。1週という時の区ぎりは聖書からきているのです。第4条の戒めは、神がこの世界を6日間でつくり、7日目に休まれたと述べていますが、これが週制度の土台となったのです。 1週間をいかに過ごすかということがこの戒めの要点です。最近は週休2日制がふえて、先進国では週休3日の声も聞かれますが、この戒めは1週間を6日間の仕事と1日の休みに分けています。仕事は人間の生きがいであり、全力をあげて働くべきです。しかし仕事だけでは人間疲れます。休みが必要です。 この第4条の戒めの休みは、現在の日曜日のような、レクリエーションやうちでテレビをみているというような休みではなく、神と交わり、自然の中で神の声を聞く時なのです。もちろん毎日の生活の中にも、神を瞑想(めいそう)し、神の声を聞くひと時が必要ですが、1週間に1日は、仕事から全く解放されて、聖書を学び、神を礼拝することは、私たちにとって最高の価値のある時です。神との出会いを深める尊い時であり、それによって本当の人間の姿をみきわめる時となるのです。 安息日は、人間回復の時です。昔イスラエル人が、エジプトで奴隷の境遇にあった時、その指導者モーセは、エジプトの王に、イスラエル人が荒野で礼拝する時を要求しましたが王はその必要を認めませんでした。 しかしイスラエル人がほんとうに人間として生きるために安息日が必要でした。今日の複雑な社会生活の中で安息日はますます必要になってきています。これは愛の神が人間にお与えになったすばらしい制度です。聖書の安息日は、今の土曜日にあたります。 6.愛のおきて このように、おきては人間の幸福のために与えられました。キリストはこのおきての精神を要約して、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイによる福音書22章37節)といわれました。 神に対する積極的な愛の精神があるならば、第1条から第4条までの戒めは人間の側から進んで守るようになるでしょう。愛は行為の原動力であって、愛がなければおきてを守ることは、束縛になります。しかし十戒は、神のみ旨であり、私たちの幸福な生活につながっていることを知る時、感謝の心をもってこれを守ることができます。 7.おきての永遠性 神のおきては不変です。それは神の性質のあらわれであり、神は不変だからです。「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない」(ヤコブの手紙1章17節)。 詩篇111篇7、8節には「そのみ手のわざは真実かつ公正であり、すべてのさとしは確かである。これらは世々かぎりなく堅く立ち」とあります。 キリストも「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである」(マタイによる福音書5章17、18節)といわれました。 キリスト教の中にも、神のおきては廃された、または変更されたという人がいますが、聖書によれば神のおきてである十戒は、不変のおきてなのです。 |
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