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預言の声聖書講座 第1部 第4課 |
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1.聖書は人間をいかにみているか 聖書は人間について多くのことを教えています。創世記1章26、27節には、「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された」とあります。 (1)存在を与えられたもの この聖書の言葉からわかることは、まず人間は神によってつくられたものであるということです。これははじめにつくられた人間だけでなく、すべての人間の存在は神によって与えられたものです。自分で生まれようと思って生まれた人はあリません。また両親の意志だけによったのでもありません。生命は神によって与えられ、神の力によって保たれているのです。この宇宙をおつくりになった神は、ご自分の名前を、「わたしは、有って有る者」「わたしは有る」といわれました(出工ジプト記3章14節)。これは「私は存在する」という意味で、この宇宙の中で、自分の力で存在するということができるのは、創造者である神だけです。私たちの生命は神に支えられているのです。作家の小田嶽夫氏は、『生命の不思議さ』という小文の中で「ところで、これはもっと大分前からのことだが、肺とか、胃、腸その他の内臓の動きについては直接肌で感じることが少ないから別として、指頭にじかに感じられる脈の動き−−心臓の活動については、しばしば不思議な気持ちを味わわされたものであった。機械というものはじきに故障の起こるのが常だが、少なくとも私の心臓の場合は50年、60年、60何年のあいだ一度だって故障の起こったことはなく、しかも機械とはちがって、1分間も休んだことはなく、営々として働きつづけていることに、生理学者や医学者にはそこに何の不思議も無いのだろうが、私は何か神秘的なものを感じないではいられないのだった。人間の肉体がじつに精巧に出来ていることはわかるが、それなら、そんな精巧な構造がどうして出来上がったのかということは、だれにもわかっていない。そこに私は創造主というか神というか、何かそういうものの存在を感じないではいられない」と書いています。心臓でも肺でも、そのほかの体の中の働きでも、私たちが動かしているのではありません。これはみな神の力によるのです。ここに神と人間の依存関係、すなわち、人間の存在は、全く神にたよっているという関係がでてきます。私たちの存在は偶然ではありません。神によってつくられた人間には、神の期待と計画があります。神の期待にこたえ、その計画の中に生きていくことが、人生の目的であり、人間にほんとうの生きがいを与えるものとなるのです。私たちは1人1人、人生においてなすべぎ役割が与えられています。それを発見して、そこに神の期待を実現していくことが、人生の目的なのです。 (2)神は何を期待されるか 神は愛であり、その活動はすべて愛から出発しています。つくられた人間にも神の愛が注がれています。私たちはこの世において仕事をもち、その仕事を通して神の愛を実現していくこと、つまり神を愛し、人を愛していくことが、すべての人に神が期待しておいでになることです。仕事は、与えられた才能、能力によってきまります。すべての人に、その人がいちばんよくできる適当な仕事があるのです。神のみちびきに従い、毎日自分の現在おかれている立場で全力を尽くしていれば、神がそのような仕事にみちびいてくださいます。そのような仕事を発見した人は、それがどんなに小さくみえる仕事であっても、忠実にその責任を果たせば、価値のある有用な仕事をすることができます。懐中時計の中にある小さいネジを考えてみてください。それが床の上にころがっているならば、何の役にも立ちません。しかし、時計の中のそれが占めるべき場所におかれたとき、その時計の生命である正確な時をきざむのに大切な働きをすることができるのです。人生においてもそのような場所を発見することが、ほんとうの生きがいになります。今日多くの人々が感じているむなしさ、空虚感は、自分の生活の意味がわからないからです。神につくられた人間の立場がわかると、人生の意味がわかってきます。 (3)神のかたち はじめの人間は、「神のかたちにつくられた」とあります。「神のかたち」というのは、神の「人格」です。人間は神の品性に似た姿につくられたのです。具体的には、はじめの人間は霊的なことがわかる知力がありました。すなわち神のことがわかったのです。またきよい愛情をもっていました。肉体を与えられたので、肉体に付ずいして、生きていくための基本的な本能−食欲や性欲−をもっていましたが、それは理性の完全な支配のもとにありました。はじめにつくられた人間は、地上の支配権を与えられ、エデンの園を管理する仕事が提供されました。人間には幸福な将来が約束されたのです。しかし不幸なことにはじめの人間は神の期待にこたえる道を歩みませんでした。このことは第7課で研究することになっています。 2.人間はアメーバからでてきたという考え 神が人間をおつくりになったという聖書の考えを聞いて不思議に思われる方が多いと思います。それは進化論といって、現在の生物は、はじめ細胞が一つのアメーバのような簡単なものから進化してできたという考えを学校で教えられたからでしよう。このような考えはギリシア時代からありましたが、一般に受けいれられるようになったのは、1859年に、英国のチヤールズ・ダーウィンが『種の起原』という本を出版してからです。それ以来進化という考えは、生物学だけでなく、広く人間の学問や思想に影響を及ぼしてきました。生命発生の研究の権威である、米国のジョージ・ワルド博士は、地上における生命の発生については、二通りの考えしかないといいました。それは神によって超自然的につくられたと考えるか、自然に発生したと考えるかです。進化論は後者に属する考えです。 進化論には二種類あって、その一つは生物が変化して新しい種をつくるというので、これはある場合実際に証明できます。教科書に出ている馬の変化などがその例です。もう一つは、この世界のすペての生物は、無生物からきた一つの簡単な生物からでてきたという説で、これはまだ証明することができません。たとえばこの説が正しければ、化石を全部あつめると、ずこしずつちがうものが連続してならべられるはずですが、実際にははっきりしたギヤップがあって、化石学がすすめばすすむほど、そのギヤップははっきりしてくるのです。そのほかこの説にはいろいろな説明しにくい点がのこっています。 創造論(神がすベての生物をおつくりになったという聖書の考え)も正確な証明はできませんが、それと矛盾するような自然界の事実は発見されていないのです。アメリ力では、この二つの考えについて議論が起こり、高等学校の教科書に今までは進化論しかのせていなかったのを改めて、今後は両方を教え、どちらをとるかは生徒の判断にまかせるということになりました。 3.生命のはじめ 物質がどうしてできたかということも科学では完全に説明できませんが、その物質が集まってタンパク質ができ、そこに生命が宿ることも、科学では説明できそうにありません。東京大学の野田春彦教授は、その著書『生命の起源』の中で、生命の材料と考えられるタンパク質や核酸が自然にできる確率を計算して、全宇宙の物質をつかっても、その確率はきわめてすくないといい、「タンパク質や核酸の比較的小さな分子を1個だけ考えても、こんな有様である。生物体を1個作るためには、ウイルスのように自分だけでは増殖できず、増殖するには他の生きている細胞の助けが必要なものでも、核酸の一分子と数百分子のタンパク質が必要である。これらのものが同時に地球上に偶然作られる確率は非常に小さいものである。つまり、我々が空気の分子や水の分子を考える場合のように、すべての分子が勝手に行動すると考えては、地球上に生物がひよっこり現われることは無いというべきである。それでも生物は発生したのである」と書いています。 このように考えると生物は神がおつくリになったと考えるほかはないと思われます。 4.サルと人間 進化論は人間とサルは共通の先祖からでてきたと考えています。そしてこれまで人間とサルがいかに似ているかという点が強調されてきました。外見的にはサルと人間はよく似ているようにみえます。しかしよくしらべると、サルと人間は非常にちがっている点もあるのです。世界的な動物学者であるアドルフ・ポルトマンは、1951年に注目すべき本を書きました。日本語にも翻訳され『人間はどこまで動物か』という題で出版されました。ポルトマンはこの本で、サルと人間の距離は、進化論者が考えているほど近いものではないことを示しました。また東大教援であった時実利彦博士は、大脳の研究から人間とサルのちがいを示しました。すなわち大脳の細胞の発達のしかたは非常にちがっていて、サルでは生まれて1週間もすると、大人のサルと同しように行動することができますが、人間の場合は長い年月がかかります。その間にいろいろなかたちに育てることができるのです。 サルと人間の最大の相違点の一つは宗教です。人間はどんな人種であっても宗教がありますが、サルにはありません。過去においても、人類ではどの文明でも宗教がないものはなかったのです。これは神のかたちにかたどってつくられた人間の特質であるということができます。現代の日本人は非常に無宗教な国民です。1972年に国立統計数理研究所が発表した日本人の国民性調査の結果によると、宗教をもっていない人は68パーセントに及んでいます。また1978年に総理府青少年対策本部が発表した、世界青年意識調査報告書によると、日本の青年で信仰をもっているものは、19.6パーセントにすぎませんでした。これはアメリ力89.1、イギリス85.7、西ドイツ94.8、フランス56.8、スイス92.0、インド95.7、フィリピン99.8、ブヲジル87.8パーセントに比較して著しく低い数字です。ヨーロッパで低い国であるスウェーデンの24.8パーセントにくらべても相当低い数字です。この報告書は、「信仰をもっている者は、わが国を除いて極めて多かった。その意味でわが国青年は異常であることを指摘せねばなるまい」といい、また、「世界の青年に共通していえることとして、働く価値観、人生観、とくに性についての考え方など、信仰をもつ者ともたぬ者の差が大きい。この事実を踏まえると、改めて宗教について考えさせられるのではなかろうか」と述べています。 キリストはマタイによる福音書4章4節に「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」といわれました。私たちが生きていくためには、パンが必要です。経済問題は大切です。しかしお金だけあればそれで満足な生活ができるかといえば、そうではないというのです。人間が生きる目的や方向、その意味がわからなければ、人生はむなしく、また不安です。昔イスラエルの王ソロモンは、神をはなれて、学問や事業、快楽等あらゆる人生の経験をしましたが、その心は空虚でした。最後に神を求め、神の道に従うことによってはじめて人生の幸福と安定を見いだすことができました。人間を生かすものは、神の言葉です。神の言葉は正しい道を示し、人生のいろいろな出来事に対処する方法を教えます。英国の歴史家トインビーは、「宗教は生と死という恐るべき事実に対する適応を教える」といいました。生も死も人生における厳粛な事実です。いかに生きるか、そしていかに死ぬかを知るには、神の言葉である聖書に導かれることが最善の方法なのです。 ※適応 一 本来生物学の言葉で生物が外界の変化に応じて生存に適するように変化することをいいます。 |
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