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預言の声聖書講座 第1部 第2課 |
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人生のみちびき イスラエルの王であったダビデは、詩篇119篇105節に「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です」と言いました。 誰にとっても、人生は初めて通る道です。そして、ただ一度しか通れない道です。知らないところに行くときは地図や案内書がいるように、人生にも案内書が必要です。それがないと不安です。確信を持って歩いていくことができません。 そんな人間に対して、人生の導きとして与えられたのが、神の言葉である聖書です。暗い夜の海を航海する船は、灯台の光を頼りにします。その光によって危険な場所を避け、安全な航海をすることができます。聖書の言葉は、人生の航海において、多くの人々を安全に導いた神よりの光です。 1.聖書の永続性 ヘンリー・シーセンという神学者は、「25年以上その生命を保つ本の率はきわめて低く、100年となると更に低くなり、1000年も寿命の続いた本といったら、きわめてわずかなものであることを考えるとき、聖書が他に比べることができない、独特の本であることに気がつく」と言いました。 聖書ほど迫害を受けた本もありません。聖書を読むことはたびたび禁じられ、また焼かれました。それにもかかわらず、聖書は今日まで生き残ってきたのです。 1778年に死んだフランスの有名な無神論者ボルテールは、「今から100年のうちにキリスト教は消えてなくなるだろう」と予言しましたが、なくなるどころか、彼の死後25年しかたたないときに、聖書協会が設立されて、聖書を印刷して、広く人々に配布する働きが始められ、キリスト教は広がっていきました。それ以来今日まで、聖書はますます広くゆきわたってきました。 初期の教会を襲った激しい迫害の中にあって、「こうして神の言はますますひろまり」(使徒行伝6章7節)と記されています。ペテロの第1の手紙1章24、25節には、「『人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る。』これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である」とあります。 東大総長であった矢内原忠雄氏は、「真理とは、抑圧しようとしても抑圧することができないものである」と言いましたが、厳しい迫害を経て、今日まで伝えられてきた聖書の言葉は、確かに真理であり、私たちの道を照らす光です。 2.聖書と科学 聖書は科学の本ではありませんが、その中には科学の分野に属するようなことも書いてあります。それは一般の人が使う言葉で書いてありますが、正しい事実を述べているのです。聖書のある部分は、科学と矛盾すると考えられたこともありましたが、科学が進歩して、それが間違いではなかったことが証明されてきました。まだはっきりしていない点があれば、急いで結論を出さないで、もっといろいろなことが分かるまで待つ方がよいのです。 ヨブ記26章7節には、「地を何もない所に掛けられる」と書いてあります。ヨブ記が書かれた時代(西暦紀元前1500年頃)には、まだ万有引力のことも知られず、人々は地球は何かに支えられていると考えていたのです。聖書のこの言葉は、聖書記者が神より示されて書いたと考えなければ分かりません。 昔は肉眼で見える星を数えていましたが、預言者エレミヤは今から約2600年前に、「天の星は数えることができず」(エレミヤ書33章22節)と言いました。紀元2世紀にアレクサンドリアで活躍した天文学者プトレマイオスは、有名な著書「アルマゲスト」の中に、恒星の表を入れていますが、それには1028個の星が出ています。しかし、ガリレイが望遠鏡 で初めて空を眺めたとき、そこに無数の星を発見しました。それ以来、大きな望遠鏡ができるにしたがって、数限りなく星が姿を現してきています。 聖書の中には、科学で説明できないようなこともありますが、科学はあらゆる問題に万能ではなく、その限界があることも認めなければなりません。しかし、はっきり証明された科学の考えと、聖書の言葉に矛盾はないのです。 3.聖書と考古学 17世紀の半ば頃から、聖書の信頼性に対する批判が、ことにその歴史的な部分に対して加えられてきました。この傾向は19世紀に入って更に強くなり、いくつかの点については、聖書の歴史性は全く否定される状態となりました。 しかし、19世紀の始めから聖書に関する考古学が発達して、多くの発見がなされ、聖書の歴史の確かなことが証明されました。 その一つの例は、旧約聖書に50回近くも名前が出てくるヘテ人です。歴史家は、そんな民族は存在しなかったと言っていました。しかし20世紀の始めに、小アジアに広大なヘテ人の王国の遺跡が発掘されました。 三笠宮様は、その著『帝国と墓と民衆』の中で、ヘテ人の王国について「紀元前8世紀に、アッシリヤのため全く滅ぼされてしまいました。この時以後3000年の間、ヒッタイト(ヘテ人)帝国の存在は人々から全く忘れられ、20世紀に再び日の光を見るまで、静かに地下に眠り続けていたのです。」(91ページ)と書いておられます。 4.聖書の預言 聖書は多くの預言を含んでいます。神は預言を通して、人間に将来に対する光をお与えになりました。聖書は「あなたがたは明日のこともわからぬ身なのだ」(ヤコブの手紙4章14節)と言っていますが、本当に私たちは、明日どんなことが起こるかを見通すことはできません。聖書の預言は私たちを導く光です。聖書の預言は、終末に関するものの他は、ほとんど全部事実となって表れています。次に、その中から著しいものをあげてみましょう。 新バビロニアは、紀元前6世紀頃、ユーフラテス川の流域に栄えた国ですが、特にその首都バビロンは、古代世界の驚異とされたほど繁栄した都であり、また外敵の攻撃に備えて要害堅固に固められ、この都が滅びることはとうてい想像もできないほどでした。 しかし、聖書の預言はどうだったでしょうか。西暦紀元前750年頃の預言者イザヤは、「国々の誉れであり、カルデヤ人の誇りである麗しいバビロンは、神に滅ぼされたソドム、ゴモラのようになる。ここにはながく住む者が絶え、代々に至るまで住み着く者がなく、アラビヤ人もそこに天幕を張らず、羊飼もそこに群れを伏させることがない。ただ、野の獣がそこに伏し、ほえる獣がその家に満ち、だちょうがそこに住み、鬼神がそこに踊る。ハイエナはその城の中で鳴き、山犬は楽しい宮殿でほえる。その時の来るのは近い」(イザヤ書13章19〜22節)と預言しました。 歴史を見ると、紀元前539年に新バビロニアの王ベルシャザルは、ペルシャの王クロスのために殺され、都は一夜のうちに滅び去ってしまいました。 今日バビロンを訪れる人は、聖書の預言が文字どおり成就しているのを見ることができます。バビロンの廃虚は、現在のバクダットから約80キロ南にありますが、そこには今なお住む人もなく、荒れ果てているのです。 もう一つのエジプトに関する預言を調べてみましょう。紀元前6世紀の預言者エゼキエルは、当時の強国エジプトについて次のように預言しました。 「わたしはエジプトの地を荒して、荒れた国々の中に置き、その町々は荒れて、40年のあいだ荒れた町々の中にある。わたしは、エジプト人を、もろもろの国民の中に散らし、もろもろの国の中に散らす」(エゼキエル書29章12節) その時は、エジプトがこの預言のようになることは想像できないことでした。しかし紀元前525年に、エジプトはペルシャによって征服されたのです。 14節には「すなわちエジプトの運命をもとに返し、彼らをその生れた地であるパテロスの地に帰らせる。その所で彼らは卑しい国となる」とあり、エジプトは再び回復されますが、前のように強大な国になることはないという預言は、今日まで明らかに成就しています。 また、今日成就しつつある預言もあります。これは非常に興味あるものですが、講座の後の方で勉強したいと思います。それは、直接にわたしたちの将来に関係があるものです。 ペテロの第2の手紙1章19〜21節に、「こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとしてそれに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきではないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである」とあります。 聖書の預言は、人間の考えや見通しではなく、神がお示しになったものです。 聖書の預言を正しく学べば、私たちの将来を照らす光とすることができます。 5.聖書の学び方 聖書は真理の宝庫です。人間の生活を豊かにし、孤独や寂しさを慰め、永遠の希望を与えるために神がお与えになった言葉です。その言葉には深い意味があり、ただ表面的に読み流しても、その意味を十分にとらえることはできません。聖書を研究して、それが本当に私たちの心の糧となり、喜びと希望を与えるものとなるために、まず聖書の言葉の意味を深く探る心が必要です。また、心を落ちつけて瞑想すると、聖書の言葉が心に触れてきます。 キリストは「神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教えが神からのものか、それとも私自身から出たものかわかるであろう」(ヨハネによる福音書7章17節)と言われました。これは、聖書を読んだらそれを実行しようとする心がまえです。実行してみると、聖書の言葉は真実なものであることがわかります。生活も、考え方も変わってきます。そして、私たちの心が成長してくるにつれて、聖書の言葉を深く味わうことができるようになります。 聖書は、始め親しみにくいようですが、毎日読んでいると、心の支えとして、1日でも読まないではいられないようになるのが多くの人々の経験です。 英国で、2000人の孤児を収容した孤児院を、何の財力もなく、ただ神に頼って経営したジョージ・ミューラーは、青年の時まじめな生活はしていませんでした。しかし20才になった時、反省して信仰を持つようになり、聖書を読み始めましたが、その意味がよく分かりませんでした。しかし、辛抱して読んでいるうちに、ある日、全く新しい経験をしました。その日から、聖書はただの本ではなくなったのです。彼は、その中に神の声を聞き、彼の生活は全く変わったものとなりました。聖書は、彼の生涯の歩みを導くものとなったのです。 聖書の読み方としてもう一つ大切なことは、聖書の言葉は、たとえ話や歌、詩的表現の他は、全て字義通りに受け取るということです。また、聖句の意味を調べるとき、その前後をよく読むと、その関係と本当の意味を知ることができます。 詩篇119篇18節に、「わたしの目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください」と書いてありますが、心の目が開かれるにつれて、神の言葉のすばらしいことがわかってきます。 ルカによる福音書24章に、キリストが2人の弟子に聖書を説明なさったことが書いてありますが、その時の経験を32節に、「彼らは互いに言った、『道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか』」と記しています。神の言葉である聖書に触れることによって、あなたの心も暖かく豊かになり、この弟子達のように「非常な喜び」(52節)をお持ちになることができるのです。 6.いろいろな人の言葉 聖書は、「人間とは何か」「人生をいかに生くべきか」「死後はどうなるか」「歴史の意味」「世界観」など、人生の基本的な問題に解答を与えています。聖書に導かれて人生を歩んだ人々の言葉を、いくつか紹介してみましょう。 「たとえ精神文化が永遠に進展しようとも、たとえ人間精神がいかに広がりゆこうとも、福音書の中にきらめき輝くキリスト教の高さと、道徳的文化を越えることは決してあり得ない。」ゲーテ 「聖書は最高の哲学である。」サー・アイザック・ニュートン 「私は、確信を持って、聖書という揺るぎない岩の上にいこう。」ウィンストン・チャーチル 「聖書は神よりの最善の賜物。」エイブラハム・リンカーン 「神の言葉の他に、文明に対する堅固な土台はない。」ダニエル・ウェブスター 「私が生涯においてなした全てのことは、私が子供の時に、母が毎日聖書の一部を読み、また暗唱させたことによるものである。」ジョン・ラスキン |
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