イエス・キリスト

--その偉大なる生涯--

12.よみがえりの朝

 「女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、『あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ』。」

 (新約聖書ルカによる福音書24章5節、6節)

 イエス・キリストが十字架の上で最期の息を引き取られたのは、まもなくユダヤの大祭過ぎ越しの祭りが始まろうとしていた金曜日の午後のことでした。「すべてが終わった」(新約聖書ヨハネによる福音書19章30節)というイエス・キリストの最期のことばは十字架のそばに去りやらずただずんでいたでしたちのかすかな希望さえも全く打ち砕いてしまいました。あらゆる夢も希望も野望も計画もイエス・キリストの死とともにはかなく消えてしまったのです。死はすべてのものに終わりを告げさせる巨大な力です。死は人生の終着駅です。古今東西、死をのり越え得た人間はひとりもおりません。でしたちはそのことをよく知っていました。すべてをかけて従ってきたこのイエス・キリストといえどもこの死にはついに勝ち得なかったのです。

 でしたちはイエス・キリストの死体をもらい受け、泣く泣く墓に葬りました。丁重に葬ることがこれまでの恩に対するせめてもの報いでした。しかし、それにしてもなんという変わりようでしょうか。つい数時間前には親しく語り合っていたあのイエス・キリストが、今はむなしい一個の物体、冷たいむくろ、物言わぬ土くれに化してしまっているのです。いくらゆすっても、語りかけてももうその目は開かれず、くちびるも閉ざされたままなのです。死とはこれほどまでにむごいものなのです。

 イエス・キリストの死体を墓に葬ったでしたちはかって味わったことのないほど大きな失望と落胆を心に秘めながら、思い思いの方向に散って行きました。でしたちの大部分はガリラヤ地方の出身でした。彼らはこれまでの幻想そふり払い、また昔の生活に返っていこうとしているのです。ある者は破れてしまったさかなの網をつくろい、ある者はすっかりさびついてしまった農具をとりだして、また昔の生活にもどろうとしているのです。

 ルカによる福音書には、すっかり気落ちしたふたりのでしがエルサレムから立ち去って行くありさまが描写されています。肩を落として悲しげに立ち去って行く様子がありありと見えるような描写です。

 「この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互いに語り合っていた。……彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、『あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか』。……『ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです』。」(新約聖書ルカによる福音書24章13節ー21節)

 イエス・キリストを墓に葬り終わったでしたちは、これでいっさいが終わったことを知りました。これ以上、何もすることはありません。だいいち、何かをしようとする気力さえわいてきませんでした。死のかなたに何を期待できるというのでしょうか。ほんとうにこれですべてが終わったのです。これ以上、何かをしても、それらいっさいは無意味であり、無益なのです。

 夏目漱石は四十八才のとき、まだ幼いまな娘ひな子を死なせてしまいました。かわいがっていた娘だけに、漱石の悲しみもまたひとしおでした。花を咲かすこともなくあわただしく死んでしまったいとし子を思って、漱石はそのころの日記に次のように書きつけました。

 「昨日は葬式今(日)は骨上げ明後日は納骨明日はもしするとすれば待夜である。多忙である。しかし凡ての努力をした後で考えるとすべての努力が無益の努力である。死を生に変化させる努力でなければすべてが無益である。こんな遺恨な事はない。」

 悲しみの感情を抑制した文章だけに、かえって子を思う親心がそくそくと感じられます。しかし、それにしてもなんと真実なことばでしょうか。たしかに、「死を生に変化させる努力でなければすべてが無益」なのです。死はすべてのものの終わりだからです。

 イエス・キリストの復活

 肩を落として立ち去っていったでしたちの胸中にわだかまっていた思いは、漱石のこのひとことにつきていました。死が生に変化させられるのでなければ、すべてがむなしいのです。

 「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。……もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。……もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。」(新約聖書コリント人への第1の手紙15章14節、17節一19節)

 コリントに在住したキリスト教徒に励ましの手紙を書き送ったパウロもそのことを知っていました。彼は、もしイエス・キリストが十字架につけられ、そして墓に葬られたままであったならば、イエス・キリストを神の子として信じるわたしたちの信仰が全くむなしいものになってしまうことをよく知っていました。もしそうならば、イエス・キリストに寄せるわたしたちの期待はすべてむなしく、わたしたちは全世界の物笑いのたねになってしまうのです。そして、わたしたちも漱石のように、「こんな遺恨なことはない」といわなければならないのです。

 しかしわたしたちは、そのあとに続くパウロの驚くべきことばを注意深く読まなければなりません。それは、きわめて重大な事実がそこにしるされているからです。

 「しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」(新約聖書コリント人への第1の手紙15章20節)

 パウロは、漱石があれほど切望した<死を生に変化させる>という驚くべきできごとがイエス・キリストにおいて起こったとのべています。十字架の上に息絶えたイエス・キリストは、息絶えたまま葬られ、永遠の眠りについたのではありませんでした。彼は三日目に死人の中からよみがえり、復活されたのです。ルカによる福音書は、そのイエス・キリストのよみがえりの朝のできごとをこのように伝えています。

 「週の初めの日、夜明け前に、女なたちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、『あなたがたは、なざ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか』。そこで女たちはその言葉を思い出し、墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。」

     (新約聖書ルカによる福音書24章1節ー9節)

 なんと驚くべきことが起こったのでしょう。イエス・キリストが死を征服して再びよみがえられたというのです。イエス・キリストは単に聖人君子、殉教者のひとりではなかったのです。彼は、ひとりの人間としてこの世に誕生し、すべての人間の運命である死を味わいながら、その死をのりこえ、克服されたのです。そして新しい生命に再びよみがえられたのです。

 復活したイエス・キリストーーこれが気落ちして四散し、信仰すら失いかけていたでしたちを再び熱烈な信仰の人に立ち返らせた決定的なできごとだったのです。イエス・キリストの復活なしには、でしたちは失望と絶望のうちにむなしくそれぞれの人生を終わっていったことでしょう。しかし、イエス・キリストは復活して、再び彼らの前にその姿を現されたのです。

 イエス・キリストの復活がでしたちを新しい人生によみがえらせたと同じように、わたしたちの人生も新しくよみがえらせてくださいます。死という人間の力では絶対に解くことのできない最大の難問をイエス・キリストの復活は解決してくれたのです。わたしたちの罪のために十字架にかかり、三日目によみがえってくださったイエス・キリストを信じることによって、わたしたちも罪から救いだされると同時に、永遠の命、よみがえりの生命を与えられるのです。

 わたしたちの人生は、死を究極の目的としているのではありません。最後には、死ぬために日々生きつづけているのではありません。それは、このイエス・キリストの復活にあずかって、死をのりこえ、永遠の生命にはいるために生きているのです。そのためには、きょう、イエス・キリストがわたしたちの心のうちに復活されなければなりません。

 信ずる者に

 よみがえったイエス・キリストは驚きまどいながらも喜びを隠すことのできないでしたちにその復活の姿を現わされました。その模様がパウロの手紙の中に次のようにしるされています。

 「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである。」(新約聖書コリント人への第1の手紙15章3節ー8節)

 こうして、復活したイエス・キリストは多くのでしたちに現われ、死にかけた彼らの信仰に再び生命と力を与えられたのでした。この後続く二千年のキリスト教の歴史は、復活したイエス・キリストとこれらのでしたちとの再会がその出発点となっています。ですから、もし、この復活の朝がなかったとしたら、イエス・キリストはゆう久の時の流れの中にうずもれてしまったにちがいありません。そしてわたしたちも、今なお罪と死のなわ目から解放されていなかったはずなのです。

 二千年のながれによってへだてられながらも、なおわたしたちが今日イエス・キリストに出会い、信仰を持つことができるのも、この復活の朝ゆえなのです。わたしたちは、死人の中にイエス・キリストをたずね求める必要はありません。彼は生きてよみがえり、天にのぼられたのです。わたしたちは二千年前の昔と少しも変わることなく今なお生きておいでになるイエス・キリストに出会うことができるのです。肉眼でイエス・キリストをたしかめることはできないかもしれません。しかし、そのことは彼を信ずるのになんのさまたげともならないのです。この復活の朝の決定的なできごとが、「見ないで信ずる」ことを可能にしてくれるからです。

 復活したイエス・キリストはもとの十一人のでしにその姿を現されましたが、そのとき、トマスというでしはあいにく居合わせませんでした。生まれつき慎重で何ごとでも自分でたしかめなければ気がすまないたちの人だったのでしょう。彼は他のでしたちがイエス・キリストの復活をどんなに力説しても、容易に信じようとはしませんでした。「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさしいれ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない。」(新約聖書ヨハネによる福音書20章25節)といつまでもがんこに言い張るのでした。

 その日から八日ののち、イエス・キリストは再びでしたちの前にその姿を現されましたが、そのときはトマスもその場に居合わせていました。そこでトマスが見たものはまごうこともない、イエス・キリストでした。これ以上確かめる必要がないほど歴然とした事実でした。自分の目で確かめ得たことへの喜びと満足感にひたっているイマスに向かって、イエス・キリストはこう語りかけられたのです。

 「それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい』。トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』。イエスは彼に言われた、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』。」(新約聖書ヨハネによる福音書20章27節ー29節)

 見ないで信ずるとはいったいどのようなことでしょうか。それは実際は何もないのに、無理やりにあると思いこむことでしょうか。信仰とはそのような、単なる想いこみでしょうか。そうではありません。わたしたちは、ある事実や真理を自分で直接確かめることができなくても、それを確かめた人々の証言にもとづいて知り、また確認することができます。イエス・キリストの復活を見ないで信ずるとは、それを目撃した二千年前のでしたちが書き残した証言である聖書にもとづいて知り、また確認するということなのです。二千年を経た今、自分の手でイエス・キリストのわき腹に触れてその復活を確かめることはできません。しかし、そのできごとの証言である聖書の語るところを信じるなら、それはとりもなおさず、自分の目でイエス・キリストを見、自分の手でイエス・キリストに触れたことになるのです。そしてそのとき、イエス・キリストはわたしたちの魂の中に再びよみがえられるのです。

 

 このイエスが

 復活したイエス・キリストに出会ったでしたちの喜びはひとしおでした。その信仰は強められ、その勇気は倍増されました。死に勝利され、生命によみがえられたイエス・キリストがいっしょにおられるならなんの恐れることがあるでしょう。イースターの朝以後のこの信仰にくらべるなら、それ以前の信仰は、なんと弱々しいものだったことでしょう。しかし、今はちがいます。イエス・キリストの死からのよみがえりにあずかって、彼らはこれまで経験したこともないような新しい人生に生まれ変わったのです。

 彼らはこれを<福音>とよびました。わたしたちが罪のなわ目から解放され、永遠の生命にあずかることーーこれが福音なのです。時々、医薬品の広告に、「難病に悩む人への福音」などということばを見かけますが、それはせいぜいよくて、あと数年間の長生きしか保証し得ない福音なのです。あと数年間生命をのばしてくれるのですから福音には違いありませんが、イエス・キリストの復活にあずかる永遠の生命というこの福音にくらべるなら、なんと無力なことでしょうか。本物の福音とは、このイエス・キリストの死とよみがえり以外の何物でもないのです。

 あと数年の生命ではなく、永遠の生命への約束がわたしたちにあすを与えてくれるのです。わたしたちはだれでもそれなりにあすを夢み、あすを幻に描き、あすがもたらしてくれるはずの栄光、成功、幸福を待のぞみながら生きているものです。

きのうは、失敗と不幸の連続でしたが、あすはいつもバラ色に輝く栄光の未来図なのです。

 わたしたちのそのあすを実現してくれるのがイエス・キリストの復活でした。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。」(新約聖書ヨハネによる福音書11章25節、26節)

 死によって中断されてしまうわたしたちの人生には、ほんとうの意味でのあすはありません。あすこそ、あすこそと絶えずあすに期待しながら、ついにはそのあすを手に入れることもなく、一生を終わってしまうのです。もしわたしたちが、死によっても中断されることのないほんとうのあすを得たいと思うなら、復活されたイエス・キリストが与えてくださる永遠の生命にあずからなければならないのです。

 イースターの朝のイエス・キリストの復活をふり返ることによって、わたしたちは涙と汗でかすんだ視界のかなたに、「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。」(新約聖書ヨハネの黙示録二一章四節)輝かしい栄光のあすをかいま見ることができるのです。墓からよみがえってでしたちの死にかかった信仰を再びよびさまされたイエス・キリストは、この栄光のあすを、最終的に実現させる準備のために再び天に帰られたのでした。

 「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。……さて、弟子たちが一緒に集まったとき、……イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』。」(新約聖書使徒行伝1章3節ー11節)

 このイエスは、またおいでになるのです。ご自身が死に勝利し、死からよみがえって天にのぼられたばかりではなく、彼を信じ、彼によって永遠の生命にあずかりたいと願う者に、その願いをかなえるために、またおいでになり、死からよみがえらせてくださるのです。イエス・キリストのよみがえりと昇天は、イエス・キリストだけのものではありません。それはまた、わたしたちの経験でもありうるのです。それは、わたしたちのよみがえりと昇天の先ぶれであり、前味わいなのです。そして、それを最終的に実現させるために、イエス・キリストはまたおいでになるのです。

 「よくよくあなたがたに言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあたたがたに言っておく。死んだ人たちが神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。」

     (新約聖書ヨハネによる福音書5章24節、25節)

 イエス・キリストによってあすを約束された人だけが、きょうという一日をほんとうに充実した一日とすることができるのです。死んで再びよみがえられたわたしたちの主イエス・キリストを信じてきょうも、あすも充実した人生を送ろうではありませんか。

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