イエス・キリスト --その偉大なる生涯-- |
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8.わたしをだれというか 「そこでイエスは彼らに尋ねられた、『それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか』。ペテロが答えて言った、『あなたこそキリストです』。」 新約聖書マルコによる福音書8章29節 群衆の離反によってガリラヤの春は終わりを告げました。この離反は、彼らの生涯の重大な転機となりましたが、イエス・キリストにとっても新しい局面を迎えることを意味していました。このできごとを境として、イエス・キリストは急速に十字架の道へと踏みだしてゆかれるのです。 イエス・キリストは自分のもとにとどまった十二人のでしを伴って、ガリラヤの北、ピリポ・カイザリヤの地方に足を向けられました。いつの時代にも、少数派につくことは決してやさしいことではありません。しかし、十二でしは、重大な危機にさらされながらもイエス・キリストへの深い愛のゆえに彼のもとにとどまりました。 しかし、かれらは依然としてイエス・キリストの真意を誤解していました。彼らは群衆と同じような期待をイエス・キリストに寄せていたのです。彼らの信仰はまだ浅く、ふたしかなものでした。波にもてあそばれる小舟のように不安定なものだったのです。 思えば、信仰の世界はなんと奥深い世界なのでしょう。ようやくたどりついた頂上は、さらに高い頂上への出発点にしかすぎないのです。ですから、たとえ誤解に基づいたものではあっても、十二でしがイエス・キリストに従い続けたことは、信仰者として正しい態度でした。たとえ不可解でも、たとえ不審でも信仰を途中で放棄してはなりません。十二でしのように、生涯をかけて従い続けなければなりません。そのとき、わずかずつではあっても、わたしたちの閉ざされた目が開かれてゆくのです。 この旅行で、イエス・キリストはこれまで隠しておられたひとつの秘密ーーイエスがキリスト(ヘブル語ではメシヤ・救い主)であることーーを12弟子に明かされました。イエス・キリストは、これまで、人々の世俗的な野心や政治的な策略から自らを守るためにメシヤの秘密を堅く保ってこられました。彼は、自ら行われた奇跡を絶対に他言してはならないときびしく命じておられますが、それもメシヤの秘密を守るためでした。 しかし、今や、メシヤの秘密を明かす時が来たのです。イエス・キリストは閉ざされていた十二でしの目を開いて、彼らをさらに新しい真理へと導かれました。自分が約束のメシヤであるという驚くべき事実と、そのメシヤがどのような使命を帯びているかという重大な事実をイエス・キリストは十二でしに教えられました。 当時、人々はイエス・キリストにさまざまな評価を下していました。もちろん、イエス・キリストを全く信じようとしないものにとっては、彼は、大工の子(新約聖書マタイによる福音書13章55節参照)、気違い(新約聖書マルコによる福音書三章二一節参照)、大食い、飲んべえ(新約聖書ルカによる福音書7章34節参照)、そして、せいぜい良くていなか出のしろうと聖書教師でした。他方、イエス・キリストを信じようとした人々の評価も、そう低いものではありませんでしたが、必ずしも的を射たものではありませんでした。ある人々は、死んだバプテスアのヨハネの再来であるとうわさしていました。またある人々は、旧約時代の大預言者エリヤの再現だと考えていました。さらに、イスラエル民族をエジプトから解放したモーセのような偉大な預言者だという風説も流れていました。(新約聖書ルカによる福音書9章7節ー19節参照) イエス・キリストはこうしたさまざまのうわさに無知であったわけではありません。それにもかかわらず、彼は一つの質問をなさいました。それは、十二でしから重大な信仰の告白を引きだすためだったのです。 「さて、イエスは弟子たちとピリポ。カイザリヤの村村へ出かけれらたが、その途中で、弟子たちに尋ねて言われた、『人々は、わたしをだれと言っているか』。」 (新約聖書マルコによる福音書8章27節) イエス・キリストに関するいろいろなうわさを十二でしも耳にしていました。彼らは知っている限りのうわさを得々としてイエス・キリストに告げました。無知であるより、多くのことを知っているほうが良いものです。しかし、信仰の世界では、知っているだけでは不十分なのです。あらゆる知識をいくら積み重ねてみても信仰は生まれてきません。知ることと信じることの間には万歩の隔たりがあるからです。得々と自分の知識をひけらかす十二でしに向かって、イエス・キリストは知識だけではなく、全存在的な返答を要求する質問を発せられました。「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか。(新約聖書マルコによる福音書8章29節。アンダーライン筆者) わたしをだれというか だいぶ以前のことでしたが、「わたしはだれでしょう」というNHKの人気番組がありました。解答者にいくつかのヒントを順々に与えて、それがだれかをあてさせるゲームでした。出演を申し込むほどの人はさすがに物知りが多く、いっしょになって答えを考えているわたしたち聴視者があまり知らないことでもよく知っていてたちどころに答えたものでした。 NHKの「わたしはだれでしょう」でしたら、知っていることを答えればそれで十分でした。その人を個人的に知っていようがいまいが、愛していようがいまいが、信頼していようがいまいが、とにかく、その人に関する知識さえ豊富に持っていれば、りっぱに答えられたのです。しかし、「あなたは、わたしをだれというか」というイエス・キリストの質問に対しては、聞きかじりの知識ではまにあいません。人々は、あるいはエリヤといい、あるいはバプテスマのヨハネといい、あるいは大いなる預言者のひとりとうわさし合っていました。しかし、それらはいずれも興味本位の単なるうわさにしかすぎませんでした。イエス・キリストはそのいずれでもありませんでした。彼は、実に神からつかわされた約束のメシヤだったのです。聞きかじりの知識ではこのような答えは出てきません。この事実を自分でたしかめたものだけがイエス・キリストをメシヤであると告白することができるのです。イエス・キリストのメシヤの秘密は、信仰によってのみ解かれるものなのです。 ガリラヤの危機以来、イエス・キリストに対するメシヤの期待はほとんど失われていました。彼のあざやかな出現ぶりに、メシヤ到来の希望をつないでいたユダヤ人でしたが、そのイエス・キリストが彼らの期待に何ひとつこたえるどころか、かえって、彼らの期待をひとつひとつ裏切ってゆくのを見て、彼のメシヤ性を疑うようになっていました。特にガリラヤの危機以後、イエス・キリストがメシヤであると考える人はほとんどいませんでした。 愛するがゆえにイエス・キリストと行動をともにした十二でしでしたが、人々のうわさを耳にし、また、自分たちが少数派であることを思うとき、一まつの不安と心の迷いを感ぜずにはおられませんでした。このイエス・キリストに従っていてほんとうにまちがいないのだろうか。自分たちはだまされてはいないだろうかという疑いが、何度追い払っても再び胸中にしのびよるのでした。 風の中の羽根のように揺れ動く十二でしの心の中にイエス・キリストは鋭く切り込まれました。「あなたは、わたしをだれというか」はっきりとした返事をためらい、当りさわりのないことをいって逃げようとするわたしたちに向かって、イエス・キリストはいつもそのように迫ってこられます。「あなたにとってわたしは何でしょう。聖人? 気違い? 詐欺師? 救い主? 神? わたしはそのうちの何かであるはずです。他人の意見ではなく、あなた自身の告白をぜひ聞かせてください。」 重苦しい沈黙の瞬間が流れました。しかし永遠に沈黙していることはできません。 ペテロはいつも他のでしに代わって発言する人でしたが、そのペテロが沈黙を破って口を開きました。 「ペテロが答えて言った、『あなたこそキリストです』。」(新約聖書マルコによる福音書8章29節) イエス・キリストの鋭い問いかけに、なんと答えれば良いのかわからないながらも、全存在をかけて答えようとするとき、神様は答えを与えてくださいます。閉ざされていたわたしたちの目を開いてくださって、これまで隠されていた驚くべき真理をひとつずつ示してくださるのです。「あなたこそキリストです」というペテロの告白は人間の知恵や知識によるものではありませんでした。神様がペテロの目を開いて見せてくださったのです。 「すると、イエスは彼にむかって言われた、『バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である』。」(新約聖書マタイによる福音書一六章一七節) イエス・キリストをだれというかによってわたしたちの人生は大きく変わってゆきます。イエス・キリストをメシヤと告白した人の生涯はなんと慰めに満ちた生涯でしょう。イエス・キリストがその人の救い主だからです。過去の罪からの救い、現在の生の無意味さからの救い、将来への不安からの救い、死の恐怖からの救い、イエス・キリストとよばれる救い主はわたしたちにあらゆる救いをもたらしてくださいます。このイエス・キリストを今、あなたはだれというでしょうか。 苦難のしもべ イエス・キリストのメシヤ宣言に十二でしは驚きの目を見張りました。やはり、このイエス・キリストが約束のメシヤだったのです。イエス・キリストがこれまでメシヤの秘密を堅く保ってこられたのは、真に信頼することのできるメシヤ王国の重臣をえりすぐるためだったにちがいありません。イエス・キリストが、今、メシヤの秘密を明かされたのは、かれがそのテストに合格したことのしるしにちがいないのです。消えかかっていたメシヤ王国の希望が再び心の中にわき上がってくるのを彼らは隠すことができませんでした。 十二でしの心の動きを見抜かれたイエス・キリストは、彼らがむなしい望みをいだくことのないようにこのメシヤがどのようなメシヤであるかを教えられました。 「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、この事を話された。」(新約聖書マルコによる福音書8章31節、32節) 神様はわたしたちが受け切れないほどの真理を一時に示されることはありません。信仰の歩みを一歩踏みだすごとに新しい真理の光を示してくださるのです。 迫りくる十字架を目前にして、イエス・キリストはこのメシヤが苦難のメシヤであることを十二でしに示されました。旧約聖書のイザヤ書に、自らの苦難によってイスラエル民族のためにとりなしをする苦難のしもべが描きだされていますが、イエス・キリストはこの苦難のしもべの生涯と運命が自らの生涯であり、運命であると決意しておられました。彼は自らを苦難のしもべと同一視しておられたのです。 「まことに彼はわれわれの病を負い、 われわれの悲しみをになった。 しかるに、われわれは思った、 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、 われわれの不義のために砕かれたのだ。 彼はみずから懲らしめをうけて、 われわれに平和を与え、 その打たれた傷によって、 われわれはいやされたのだ。 われわれはみな羊のように迷って、 おのおの自分の道に向かって行った。 主はわれわれすべての者の不義を、 彼の上におかれた。…… 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。 義なるわがしもべはその知識によって、 多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。」 (旧約聖書イザヤ書53章4節ー11節、16節) イエス・キリストの生涯はこの苦難のしもべのように苦難と犠牲の連続でした。神のみ子が人間となられたということだけでも大きな犠牲です。それなのに、イエス・キリストは三十数年の地上生涯を数々の苦難の中におくられ、ついには、十字架という最大の苦難さえも喜んで耐えられたのです。 このような苦難も、犠牲も、ひとえにわたしたちの救いのためでした。イエス・キリストは、わたしたちの救いのためには、どのような苦難も、犠牲もいとわれませんでした。苦難と犠牲なしに救いはありません。ひとりの遭難者を救いだすために、どれほどの汗が流されなければならないことでしょうか。ひとりの非行少年を立ち直らせるために、どれほどの涙が流されなければならないことでしょうか。イエス・キリストは底知れぬ罪のどろ沼にはまりこんでしまった人類を救いだし再び自由の身とするために、多くの汗と涙を流し、最後に、その血をも流されたのです。 このメシヤは、この世の諸王のように多くの人々にかしずかれ、仕えられることを拒否されました。この世は、仕えられる人を尊び仕える人を卑しめます。しかし、イエス・キリストはすべての人に仕えることを選び取られました。自らを低くすることによって、すべての人の救い主となられたのです。 日のあたる道しか歩んだことのないものには日のあたらない道しか歩めなかったものの苦しみや悲しみはわかりません。同じ道を歩んだものだけがその苦しみを理解できるのです。イエス・キリストは日のあたらない道を選ばれました。その選択がどのような結末に終わるかをよく見通してのうえの選択でした。わたしたちの救い主となってくださるために日のあたらない道を選ばれたのです。 「そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる天において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。」(新約聖書ヘブル人への手紙2章17節、18節) 一粒の麦 苦難と犠牲のみが救いをもたらすというイエス・キリストの実践的な教えは、信仰者のむなしい幻想では決してありません。それはすべての生を可能にしている自然の法則なのです。苦難と犠牲がなければ、どんなに小さな生物でも生を営みつづけてゆくことはできません。すべての生はこれらの二つのものの上に成り立っているのです。イエス・キリストはその真理を一粒の麦のたとえによって明らかにされました。 「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(新約聖書ヨハネによる福音書12章24節) もし、一粒の麦が地にまかれて死ななければどうなるでしょう。ただの一粒に終わってしまいます。しかし、もし一粒の麦が分解され、死んでゆくことを拒まなければ、それは新しい生命に再生し、やがて何百倍かの豊かな実りをもたらすのです。 一粒の麦の真理は魚の世界にも見られます。さけの生態はこの死と再生の真理を力強くあかししています。さけは河川で生まれ、海で育ちますが、成魚になると産卵のために、秋から冬にかけて生まれ故郷の河川にもどって行きます。雄と雌が一対になって川の中流から上流にまでさかのぼり、尾びれで砂れきの川底を掘ってそこに卵を産みつけるのです。この期間、親魚は食物をいっさいとりませんので、からだはみるからにやせ衰えてしまいます。特に、産卵後の衰弱ははげしく、ほとんどの親魚は産卵を終わると、下流に押し流されて死んでしまいます。 しかし、親魚の死は決して無駄ではありません。春がめぐって来て、すべての生命が躍動し始めるころ、無数の卵が新しい生命に誕生するのです。親魚の犠牲と死とが新しい生命の誕生を可能にしたのです。 イエス・キリストは単なるヒロイズムから苦難と犠牲の道を選びとられたのではありませんでした。罪のうちにうごめいていたわたしたちを死の生涯から救いだし、新しい生命によみがえらせるためには、彼の苦難と犠牲に満ちた生涯と十字架の死が必要だったのです。神のみ子がその一命をとしてわたしたちを救いだしてくださらなければ、わたしたちには望みはありませんでした。イエス・キリストは、わたしたちへのあふれるような愛のゆえに自らすすんで一粒の麦となってくださったのです。 しかし、イエス・キリストというこの一粒に麦はなんと生命力にあふれた一粒の麦でしょうか。土の中に朽ち果てるかに見えたこの一粒の麦は、自らが再び生命によみがえったばかりではなく、「あなたは、わたしをだれというか」との問いに、「あなたこそ、メシヤです」と答えるものをことごとく永遠の生命によみがえらせてくださるのです。 苦難と犠牲とがメシヤの運命であるというイエス・キリストの思いがけないことばにとまどう十二でしに向かって、イエス・キリストは彼をメシヤと告白するものもまた、一粒の麦のような苦難と犠牲の生涯を送らなければならないことを教えられました。 「それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、『だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう』。」(新約聖書マルコによる福音書8章34節、35節) 動物や植物の世界における真理は、また、信仰の世界においても真理なのです。信仰者の生涯は遊びや気ばらしではありません。それは絶えず自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス・キリストの苦難と犠牲の道に従って行く生涯なのです。わたしたちはともすると安易な道を歩もうとします。しかし、それはイエス・キリストが選び取られた道ではありませんでした。それは救いへの道ではなかったからです。苦難と犠牲の道が救いへの道であり、永遠の生命への道なのです。その道がたとえどんなに苦難に満ちていてもイエス・キリストの選ばれた道をわたしたちも選ぼうではありませんか。 |
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