イエス・キリスト

--その偉大なる生涯--

5 神の国の市民権

 「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』。」

 新約聖書ヨハネによる福音書3章3節

 イエス・キリストの神の国到来の告知を聞いた者のひとりに、ニコデモというユダヤ人の実力者がいました。人々の心に深く食い入るイエス・キリストのすばらしい教えは、いつの間にかニコデモの心を強くとらえていたのです。彼はイエス・キリストののべ伝える神の国がたしかに人間の魂のふるさとであることを確信しました。そして、なんとかしてこの神の国にはいりたいと考えたのです。

 ある晩、ニコデモは意を決してイエス・キリストをたずねました。ヨハネによる福音書三章の記録はその間のこまかい心理描写を試みてはいませんが、それを読むわたしたちには、ニコデモの期待にはずむ心音が伝わってくるような気がします。

彼は一つのことを知りたかったのです。どうすれば神の国の市民権を取得できるかということでした。わたしたちはよくこれと同じ経験をします。それがたしかにすばらしいことだとわかってはいても、どうすれば実行でき、また実現できるのか、かいもく見当がつかなくて悩んだり、焦燥感に襲われたりすることがあります。ニコデモもそうでした。いったい、どうすれば神の国にはいれるのだろうかと彼はいぶかったのです。

 イエス・キリストの答えは単純で明快でした。「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』。」(新約聖書ヨハネによる福音書3章3節)

 神の国の市民権の資格は、新しく生まれることです。

 日本で生まれ、日本で育った正真正銘の日本人のわたしから生まれたふたりの子供は、わたしのアメリカ滞在ちゅうに生まれたというただそれだけの理由によってアメリカ人になってしまいました。それは、アメリカの国が、両親の国籍、資格、職業のいかんにかかわらず、アメリカ国内で生まれた人にはアメリカの市民権を与えているからです。そこで生まれたということが決定的な重みを持っているのです。 神の国の市民権を取得し、そこにはいる資格を得るためには新しく生まれなければなりません。それ以外のものではだめなのです。この世の権利や資格を得るためには地位、学歴、年功、財産、能力などがどうしても欠かせませんが、神の国の市民権を得るためにはこれらのものは何一ついらないのです。ただ〈新しく生まれ〉ればそれでよいのです。そうすれば、市民権はおのずと与えられます。

 深遠な答えを期待していたニコデモには意外な答えでした。まるで人を食ったような答えだったのです。そこでニコデモはすかさず答えました。「人は年とってから生まれることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生まれることができましょうか。」(新約聖書ヨハネによる福音書三章四節)私はまじめな質問をしているのに、どうしてあなたは人を食ったような答えをなさるのですかという抗議のことばともとれます。しかし、それにもまして、わたしたちはこのニコデモのことばの背後に、「もし、生まれ変わってもう一度新しい人生をやりなおせるものなら、どんなにかうれしいことだろう。ああ、しかしそのような望みをいくらいだいてみても、なんの役にも立ちはしないのだ。」という悲惨な嘆きがひそんでいるのを感じ取ることはできないでしょうか。もしできることならもう一度生まれ変わって人生をやり直してみたいと願うのはニコデモだけではありません。昔の人は不死を願いましたが、現代人は、不死よりもむしろ再生を願っています。トルストイの「復活」も島崎藤村の「新生」も現代人のはかない願望を文学に託したものです。わたしたちの心の奥底にも、同じような願望がひそんでいるのです。

 ニコデモの悩みは矛盾に満ちたものでした。新しく生まれなければ神の国の市民になれないのに、新しく生まれるなどということは、とうていかなえられないむなしい望みだったのです。しかし、真実を求める心をイエス・キリストは決して捨ててはおかれません。ニコデモの胸の中を読み取られたイエス・キリストは、さらにことばをついでこう言われました。

 「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国にはいることはできない。肉から生まれる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。」(新約聖書ヨハネによる福音書3章5節ー7節)

 死から生命へ

 人生をもう一度やり直すなどということは口では簡単にいえても、実際には全く不可能なことです。なぜなら、肉体的に生まれ変われるはずはありませんし、そのうえ、過去という自分の影法師がどこまでも追いかけてくるからです。人間はいやでも、自分の影法師を引きずりながら生き続けなければなりません。それがいやなら、死を選ぶしかありません。自分の人生に行きづまり、やり直しのきかないことを痛いほど思い知らされるとき、わたしたちはふっと死を思います。しかし、死は解決ではありません。ざせつであり、敗北なのです。

 そもそも、死を願いながら生きていることがほんとうに生きていることになるのでしょうか。そのような生は生ではなく、死なのです。シェークスピアの悲劇、マクベスに出てくるせりふのように、「生きているその日その日を死んでおられた」ような生なのです。たとえどのように健康でも、ほんとうに生きていることにはならないのです。死に向かって生きているどころか、死のうちに生きているのです。

 「さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者である。」

       (新約聖書エペソ人の手紙2章1節)

 わたしたちを出口のない袋小路に閉じ込め、生きているとは名ばかりの死んだような人生を送らせているのは、罪という黒い影法師なのです。パウロという偉大な聖書記者は人間のうちにひそむこの罪の力の大きさ、強さに圧倒されて、このように書き残しています。

 「あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。」(新約聖書ローマ人への手紙6章20節、21節)

 新しく生まれ変わり、神の国の市民となるための第一歩は、わたしたちのこれまでの生が、罪と恥辱に満ちたものであり、生とは名ばかりの死んだような生涯であったことを認めることです。これまでと同じような生き方でも良いと思う人は神の国の市民としてふさわしくない人です。なぜなら、神の国は、罪と死の生涯からのがれて、義と生命の生涯にはいった人々の国だからです。

 新しく生まれなさいというイエス・キリストのことばは、肉体的な生まれ変わりをさしているのではありません。それは心の生まれ変わり、魂の生まれ変わりをさしています。つまり、これまでの生き方に背を向けて百八十度の転回をし、神に向かって生きる生涯に踏み出すことを意味しているのです。

 人間は罪の大小を問い、許される罪と許されない罪とを区別しようとします。それだけではありません。もっと悪いことに、過去の失敗やあやまちを自分でも忘れられず、また他人も忘れてくれないものです。しかし、イエス・キリストはわたしたちの過去がたとえどのようなものであれ、それを全く問題にされません。イエス・キリストにとっては、許すことのできないほど重すぎる罪はないのです。わたしたちが、かすかにでも新しい人生を望むならば、必ず罪を許し、過去を清算してくださるのです。

 「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」のです。

(新約聖書ヨハネの第1の手紙1章9節)

 ルカによる福音書一五章に記録されているほうとうむすこのたとえは、ニコデモと同じ質問を発しているわたしたちに豊かななぐさめと力強い励ましを与えてくれます。親の財産を湯水のように消費し、その日の食事にもこと欠くようになったほうとうむすこの回心の物語は、わたしたちがどうすれば神の国の市民として生まれ変われるかを教えてくれます。

 「そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛をひいてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」(新約聖書ルカによる福音書15章17節ー24節。アンダーライン筆者)

 わたしたちはこのほうとうむすこほど愚かではないでしょう。しかし、彼と同じ死の生涯を送っていたことはたしかです。この死の生涯から生命の生涯によみがえるためには、わたしたちも彼と同じように、罪を悔い、神に向かう人生に一歩踏み出さなければなりません。

 新しい生涯

 世界の四大聖人のひとりに数えられているソクラテスは、生前、デルファイの神殿に参けいしたおり、そこに掲げてあった献納額に刻んであった〈なんじ自身を知れ〉ということばに激しくうたれ、悟りを開いて新しい人生にはいっていったと伝えられています。イエス・キリストにある新しい人間に生まれ変わってゆくための第一歩も、自分自身のこれまでの人生が罪と恥辱に満ちたものであり、生きているとは名ばかりの人生であったことを認めることでした。しかし、自分の過去を振り返り、過去の罪や失敗をひとつひとつたんねんに数えあげてみても、それだけでは新しく生まれ変わることはできません。

 イエス・キリストと出会い、神の国の市民として招かれたわたしたちは、さらにもう一歩踏み出さなければなりません。新しい人生への第二歩ーーそれは古いものを全部捨ててしまうことです。皆、「捨てる文明」ということばがはやったことがあります。使いもしないガラクタをいつかは利用することもあるだろうととっておいても、結局はいたずらに場所ふさぎをしているだけなのだから、思い切って捨ててしまって、身辺をさっぱりしたほうがより快適に暮らせるという主張でした。あるいは、売らんかなのコマーシャリズムが作り出した巧みな宣伝だったのかもしれませんが、一面、たいせつな真理を伝えています。

 過去を清算し、古いものを整理するためにそれらをもう一度ひっぱり出してながめてみたところでどうにもなりません。過去を清算するためには、思い切って捨ててしまわなければなりません。わたしたちの過去がたとえどのようなものであったとしても、イエス・キリストの十字架の死によって許されたのですから、過去を捨て、確信をもって新しい生涯にはいってゆかなければならないのです。

 ある朝早く、イエス・キリストは興奮した一群の人々につかまってしまいました。彼らが、道ならぬことをしていたところを見つかったひとりの女をひきたててきたからです。彼らはイエス・キリストがこのような場合、どのような判断を下すのかを知りたかったのです。

 「彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい』。そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。

 そこでイエスは身を起こして女に言われた、『女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はいなかったのか』。女は言った、『主よ、だれもございません』。イエスは言われた、『わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように』。」(新約聖書ヨハネによる福音書8章7節ー11節。アンダーライン筆者)

 許されることはすばらしいことです。良心のかしゃくと不安におびえてあてどもなくさまよう必要がなくなったです。帰る場所が与えられ、帰ることが許されたのです。しかし、それは、これまで住んでいた同じ場所ではありません。古い、罪深い住みかではなく、新しい義の住みかに帰ってゆかなければなりません。イエス・キリストが、「お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」と訴えておいでになるからです。

 あやまちを犯したことがないという人は偽りの人です。わたしたちは、他人をあざむけても自分をあざむくことはできません。まして、神様をあざむくなどは絶対にできないことだからです。

 しかし、いつまでも同じあやまちをくる返す人は愚かな人です。動物でも、痛い目にあえば、同じ行動はとりません。まして、神の国の市民として生まれ変わったわたしたちが、どうして、再び昔の罪深い生涯にもどってゆくことができるでしょうか。古いもの、むなしいもの、罪深いもの、愚かなものーーそれらすべてをきっぱりと捨て切ることが神の国の市民に期待されているからです。

 「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておられるだろうか。」(新約聖書ローマ人への手紙6章1節、2節)

 新しい価値

 エリコの町に住んでいた取税人のザアカイはある日、神の国の福音を耳にしました。彼は、占領国ローマの手先となってきびしく税を取り立てていたことに加え、かなりの額を着服していたこともあって、民衆の恨みをかっていました。しかし彼自身はほんとうは悩んでいたのです。他人を愛することもなければ、他人から愛されることもなく、信頼することもなければ信頼されることもないという、精神的にはみじめな毎日のあけくれだったのです。そうなると、たよりになるもの、愛せるものは金銭だけです。自分だけです。ザアカイはそれに最高の価値を与えて自分の人生の充実をはかろうとしたのです。しかし、そうすればするほど、彼は自分の心の割れ目がますます広がってゆくのを感じないわけにはいきませんでした。

 ザアカイがイエスと出会ったのは、そのようなときでした。彼はイエスに出会って、これまでの自分の価値観がまちがっていたことに気づいたのです。彼は百八十度の転回をしました。人々から奪い、かすめ取る生涯から、与え、施す生涯へと生まれ変わっていったのです。彼は、イエス・キリストにこう誓いました。

 「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します。」(新約聖書ルカによる福音書19章8節)

 イエス・キリストに出会い、彼のうちに最高の価値を見いだしたザアカイは、これまでの罪に満ちた生き方も、この世の価値もいさぎよく捨てて、新しい生涯にはいっていったのです。この世の価値は、たとえどんなものでも、いつかわたしたちを裏切るときがあります。いつか必ずそれほどの価値がなかったことを暴露してしまいます。しかし、新しく生まれた人は永遠に変わらない真の価値をすでに手に入れているのです。

 「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。わたしは、更に進んで、わたしの主イエス・キリストを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。」(新約聖書ピリピ人への手紙3章7節、8節。アンダーライン筆者)

 新しく生まれた人は最も価値あるものを手に入れるために、今まで持っていたあまり価値のないものを惜しげもなく捨ててしまいます。この世の価値に対する執着心が薄くなり、イエス・キリストのみを絶対的な価値とする人生に生まれ変わってゆくのです。愚かなこと、むなしいこと、無益なことはもちろんのことです。たとえそれがどんなに有益でありまた必要であっても、この世のものはいっさい、絶対的な価値を失ってしまうのです。

 紀元79年の8月24日から25日にかけて、南イタリアのベスビアス山のふもとにあった、人口2万のポンペイ市は、突然襲った噴火によってあっというまに廃虚に帰してしまいました。その後、なん世紀にもわたってポンペイの町は、人目に触れることもなく、静かに眠っていましたが、1738年に考古学者たちがこの廃虚の町を発掘して以来、再び歴史にその姿を現すようになりました。

 ある日、ひとりの女の白骨体が発見されました。不思議なことに、彼女の足はたしかに町の外に向いていましたが、そのからだは町に向かってねじ曲がっており、その手も同じ方向に差し出されていました。驚いたことには、力限りに差し出された彼女の手の前方にいくつかの真珠が千数百年の歳月に耐えてなお輝いていたのです。自分が落としたものをあわてて拾い上げようとしたのでしょうか。それともだれかが落としていったものを大急ぎで拾い上げようとしたのでしょうか。その一瞬非情な溶岩が彼女を包み、そのままの姿に固定してしまったのです。

 「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか、また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(新約聖書マタイによる福音書16章26節)

 という厳粛な問いをイエス・キリストは発しておられます。現代人の願いである新生はこの世のむなしい価値を捨て、自分さえも捨て、イエス・キリストを絶対的な価値とするとき、はじめて可能となるのです。二千年前、パレスチナの静かな湖岸にひびき渡った〈すべてを拾ててわたしに従ってきなさい〉というイエス・キリストのさわやかなことばがきょう、わたしたちの耳にも新鮮なひびきをもって迫っているではありませんか。

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