イエス・キリスト

--その偉大なる生涯--

4.神の国の到来

 「神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、『神の国は、見られるかたちで来るものではない。また「見よ、ここにある」「あそこにある」などとも言えない。神の国は実にあなたがたのただ中にあるのだ』。」

  新約聖書ルカによる福音書17章20節、21節

 石で追われるように故郷の岩手をあとにした石川啄木、たえず、ふるさとを慕っていました。古い因襲と封建性に耐えかね、自由を求めて故郷を捨てた彼でしたが、自分をはぐくみ育ててくれたふるさとを生涯忘れることができませんでした。

彼はふるさとを慕う、あふれるような思いを歌に託しました。

 ふるさとの山に向いて

 言うことなし

 ふるさとの山はありがたきかな

 ふるさとーーそれはなんとしたわしく、またなつかし響きをおびたことばでしょう。わたしたちを瞬時、大空のように晴やかで少しのわずらいも知らなかったしあわせな幼年時代の日々に連れもどしてくれる魔法のことばなのです。

 しかし、そのふるさとは徐々に、しかし確実に失われています。ハィデッカーという哲学者は、「故郷の喪失が世界の運命となりつつある」と言いましたが、たしかにいつの間にか山がけずりとられて団地に変わり、田畑がうずめられて工場がたてられるなど、わたしたちのふるさとが次々に破壊され、ふるさとを思いおこさせるものがどしどし姿を消しています。啄木にはまだふるさとの山がありましたが、わたしたちの時代は、ふるさとの山すらなくなりかねない時代です。

 しかし、ふるさとの喪失ということは今に始まったことではありません。聖書は、人間の全歴史がふるさとを失った人間の孤独なさすらいの連続であったといっております。

 「そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。」(旧約聖書創世記3章23節、24節)

 有名なミルトンの「失楽園」の題材となったこの旧約聖書の物語は、人間がどのように故郷を喪失し、さすらい人としての運命をになうようになったかを教えています。人間がその存在の根拠である神をしりぞけ、神をあがめることをしなくなったとき、ふるさとを失い、エデンの東をさすらわなければならなくなりました。

 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。」(新約聖書ヘブル人の手紙11章13節、14節。アンダーライン筆者)

 人間がエデンの園から追放され、さすらいの身となったことは、たんに父祖の地、ふるさとを失ったということだけではありませんでした。それは、何よりも、まず心のふるさと、魂のふるさとを失ったことを意味していました。心のささえ、魂のよりどころを失った存在ーーそれがさすらいの旅人としての人間の真の姿でした。ふるさとを恋慕うわたしたちの心の奥底には、ほんとうは、心のふるさと、魂のふるさとを慕うせつない願いが秘められているのです。

 イエス・キリストは、この失われたふるさとを回復するためにおいでになりました。エデンの東でさすらっているわたしたちをふたたび緑したたるエデンの園に連れもどし、心のよりどころを求めているわたしたちにそのよりどころとなってくださるために彼はこの地上に来られたのです。「時は満ちた、神の国は近づいた。」(新約聖書マルコによる福音書1章15節)というイエス・キリストの宣告は、ふるさと回復の宣言でした。イエス・キリストは、人間の最終的なふるさとが神の国であり、その神の国がイエス・キリストの出現とともに到来したことを明らかにされました。

 約三年半にわたったイエス・キリストの働きは、神の国の到来を告げ知らせ、人々を神の国に招き入れることでした。天国、あるいは、御国(みくに)ということばが福音書のあちらこちらに出てきますが、この二つのことばは神の国と同じ意味に使われており、神様がわたしたちのために備えてくださった永遠のふるさとをさしています。

 四福音書のテーマは神の国だといわれていますが、たしかに、イエス・キリストが語られたことば、行われた力あるわざは、みな神の国に関するものでした。イエス・キリストは失われていたふるさとが回復されたことと、ご自身がこの回復されたふるさとである神の国に至る道であることを宣言されたのです。

 「イエスは彼に言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしたちによらないでは、父のみもとに行くことはできない』。」(新約聖書ヨハネによる福音書14章6節)

 神の国の現在性

 イエス・キリストがその到来を告知された神の国は、現在の生活とは少しも関係のない未来の理想社会のことではありません。それは、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(新約聖書ルカによる福音書17章21節)という宣言のように、今この地上において、わたしたちの心の中にうち建てられている神の恵みの支配、また統治のことなのです。

 ますます混迷と矛盾の様相を濃くしているこの現代社会のどこに神の国があるのだろうかと不思議に思われるかもしれません。たしかに、平和な理想社会を築きあげようと日夜励んできた人間の試みは、これまで、少しも成功しませんでしたし、逆にそれらのすべてが失敗し、ざせつしてきました。人間の歴史は人間がどれほど精魂を傾けて努力しても、理想社会を築くことができないという厳然とした事実を教えてくれたのです。歴史のページをひもとくとき、多くの国々が、理想社会の実現を目ざして絶えず興亡の歴史をくり返してきたことがわかります。

 しかし、神の国は、これらの国々の興亡に巻きこまれず、かえってそれをのり越えて存続してきました。それは、神の国がわたしたちひとりびとりの心のうちに樹立される神の「義と、平和と、聖霊における喜び」の統治だからなのです。(新約聖書ローマ人への手紙一四章一七節参照)この地上に、イエス・キリストを信じる人が生きている限り、神の国は決して歴史の一ページとしてうずもれてしまうことはありません。いつもわたしたちの近くにあり、いつもわたしたちの心の中に生き続けるのです。

 「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。」(新約聖書コリント人への第2の手紙4章8節、9節)

 「わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(

新約聖書ピリピ人への手紙4勝11節ー13節)

 これらの聖書のことばは、神の国が単なる空想上の存在ではなく、たとえこの世の歴史やわたしたちの境遇がどのように移り変わったとしても絶対に変化したり、なくなったりすることのない動かしがたい現実であることを力強くあかししています。神の国はいつかは必ず現れるはずのユートピアではありません。それは、イエス・キリストを王とし、主として仰ぐ人々の心の中に、今、ゆるぎなくうち建てられている神の恵みの王国なのです。

 「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また、『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。」(新約聖書ルカによる福音書17章20節、21節)というイエス・キリストのことばのように、心の中に樹立された神の国は、必ずしも目に見えるものではありません。しかし、たとえ目には見えなくてもあるものはあるのです。この世界には、目には見えなくても、たしかに存在するものが多くあることをわたしたちはよく知っています。

 この見えない神の国が見るようになり、その神の国にはいれるようになるのは、わたしたちがイエス・キリストに出会い、これまでおもしのように重くのしかかっていたすべての罪が許されるときです。四福音書にはイエス・キリストが悪霊を追い出された記録が載っていますが、この奇跡は、深い意味をもっていました。

 「しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」(新約聖書マタイによる福音書12章28節。アンダーライン筆者)

 悪霊にとりつかれた人間に平安はありません。喜びも希望もありません。暗黒と絶望の毎日しかないのです。しかし、イエス・キリストは、わたしたちの心の中に住んでいる悪霊を追い出してくださったのです。そして、代わりに神の国をうちたててくださいました。

 「そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。」(新約聖書エペソ人の手紙2章19節)

 わたしたちはもう、さすらいの宿り人ではないのです。帰るべき永遠のふるさと、魂のふるさとを持っているのです。多くの人々がふるさとを失って悲しみにくれている今、わたしたちは、ふるさとである神の国に帰ろうではありませんか。

 神の国の未来性

 動物には現在しかありません。あすへの希望もない代わりに、あすへの不安もありません。「あしたこそ」という期待をいだいたり「いったいあしたはどうなるのか」と不安を感じたりするのは、わたしたち人間だけです。「あしたはあしたの風が吹く」とうそずいてはみても、わたしたちはだれでもあすのことが気になるものです。

 イエス・キリストの神の国は、すべての人がなんとかして知りたいと願っているこの「あす」の問題の最終的な回答でした。イエス・キリストが告げ知らされた神の国は、現在わたしたちの心の中にすでに実現されているばかりではなく、やがて世界の歴史が終わる日に最終的に完成されるものでもあります。神の国のこの終末的な完成を教えるために、イエス・キリストはからし種とパン種のたとえを語られました。

 「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、『天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる』。またほかの譬を彼らに語られた、『天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる。』」

     (新約聖書マタイによる福音書13章31節ー33節)

 心の中に樹立されている神の国は、たしかに目に見えないほど小さくて、ひよわに見えるかもしれません。しかし、それは世界の歴史が終わりを告げる日に宇宙の王として勝利するのです。旧約聖書のダニエル書7章13節、14節に、

 「見よ、人の子のような者が、

  天の雲に乗ってきて、

  日の老いたる者のもとに来ると、

  その前に導かれた。

  彼に主権と栄光と国とを賜い、

  諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。

  その主権は永遠の主権であって、

  なくなることがなく、

  その国は滅びることがない。」

という世界歴史の終わりと神の国の最終的完成を描写したことばがありますが、イエス・キリストはこの旧約聖書のことばを引用して今から二千年前にうちたてられた神の国が永遠の未来にまで続くものであることを明らかにされました。

 「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」(新約聖書マタイによる福音書24章30節)

 孔子は、「われいまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らんや」と言いましたが、わたしたちがあすに対して不安と恐れをいだくいちばん大きな理由は、あすが死者の世界の待っている日だからなのです。しかし、イエス・キリストは神の国が死者の世界を征服し、死のかなたに永遠の生命を約束していることを明らかにされました。ですから、神の国に招き入れられた者は、現在この世において充実し、満ち足りた生涯を送れるようになったばかりではなく、そのようなすばらしい人生をいつまでも続けられるようになったのです。

 死が人間にとって避けることのできない大きな問題であることはだれでもよく知っています。死は人間にとって、最大の敵なのです。しかし、なんとすばらしいことでしょう。このような恐ろしい敵が、神の国の出現の日に「最後の敵として滅ぼされ」わたしたちは再び命によみがえるのです。(新約聖書コリント人への第1の手紙15章26節参照)死を味わわずにすむ人はひとりもいません。人間はみな必ず死ななければなりません。しかし今この地上において樹立されている神の国の市民は、やがて出現するあすの神の国において永遠の生命を与えられるのです。なざならその日死の問題が全く解決され、〈死の死〉が実現するからです。

 「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。」(新約聖書ヨハネの黙示録21章1節ー14節)

 イエス・キリストを信じた人の生涯は喜びと希望にあふれた生涯です。なぜなら、やがて出現し、永遠に続く神の国があすに向かってきょうも力強く生きる力をわたしたちに与えてくれるからです。

 み国がきますように

 夕焼小焼けの赤とんぼ

 おわれてみたのは 

 いつの日か

 だれでも知っているこの赤とんぼの歌ほど望郷の思いをかきたてる歌はほかにはないでしょう。それは、この歌がなつかしい誕生の地、また幼少時代の地であるふるさとを思いおこさせるからです。しかし、同時に、この歌はなんと深い哀愁をおびていることでしょう。死を連想させるほどの深い哀愁です。ふるさとはわたしたちの人生の幕あけの地でした。しかし同時に、それは終幕の地でもあります。ふるさとで生まれ、ふるさとをいで立ったわたしたちは、たえずふるさとをしたいながら一生を過ごし、最後になって無言の帰郷をとげるのです。ふるさとはなつかしい思い出の地ではありますが、同時に、父祖の眠る地であり、死者の群れに加わる地でもあるのです。

 聖書に登場する信仰者もまた、ふるさとをいで立ち、生涯を旅人として送った人々です。彼らもわたしたちと同じ人間です。なつかしいふるさとに帰りたい、せめて父祖の地に帰って生涯を終わりたいとどんなにか願ったことでしょう。しかし、彼らのほとんどは、無言の帰郷さえ許されず、見知らぬ異国の地に骨をうずめなければなりませんでした。

 しかし、彼らには、この地上のふるさとよりもはるかによいふるさとがあったのです。それは、天のふるさと、神の国でした。彼らは神の国のきょうを力かぎりに生き抜き、神の国のあすを信じながら希望と平安のうちにこの地上の生涯を終わっていったのです。

 「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(新約聖書ヘブル人への手紙11章13節ー16節。アンダーライン筆者)

 わたしたちの時代は故郷喪失の時代であるといわれています。たしかに、この地上での故郷は喪失してしまったかもしれません。帰るべき山や川はその姿を変えているかもしれません。しかし、悲しむ必要はないのです。あてどもなくふるさとを求める旅に出る必要もないのです。神様が帰るべきふるさとを備えてくださいました。そして、イエス・キリストがその道を示してくださいました。イエス・キリストは次のようなすばらしい約束をしておられます。

 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」

     (新約聖書世は14章1節ー13節)

 神様が備えてくださっているふるさとは、地上のふるさとよりもはるかにすばらしいふるさとです。それは現在から未来にわたって存在しつづける〈神の国〉という永遠不変のふるさとです。しかも、わたしたちから遠くへだった場所に存在するものではありません。イエス・キリストを信じるとき、今、ここに存在するのです。そして、やがてこの世界の歴史が終わり、イエス・キリストが再びこの世界に帰られる日に栄光に満ちた宇宙の王国として完成されるのです。

 ある日、イエス・キリストはでしたちに模範的な祈りを教えられました。「主の祈り」とよばれるこの祈りの中でイエス・キリストはわたしたちがすばらしい神の国の到来を願って、たえず「御国がきますように」と祈り求めるように教えられました。(新約聖書マタイによる福音書6章10節参照)そのときわたしたちはすでに心の中にうち建てられている神の国から流れ出てくる力にささえられて、日々襲ってくるさまざまの困難、苦しみ、災い、病気、死などにも負けることなく力強く人生の旅をつづけられるようになるのです。それらすべてが解決される栄光に満ちた神の国のあすをめざして一歩一歩力強く歩めるようになるのです。

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