イエス・キリスト

--その偉大なる生涯--

3. 決断の時

 「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天がら声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である』。」

 新約聖書マタイによる福音書3章16節、17節

 世界の聖人、賢者とあがめられる人々の伝記には、必ずといってもよいほど、幼少時代の言行をほめたたえる逸話が数多く紹介されています。

 しかし、イエス・キリストの生涯の記録である四つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中には、その幼少時代、および、青年時代に関する記録が皆無といっても過言でないほど見当たりません。それは福音書が、いわゆる聖人や賢人の伝記のたぐいではないからです。イエス・キリストのおいたちをことこまかに描写することによってすぐれた伝記を書きあげたり、後代に残る完璧な歴史的文献をととのえたりすることが福音書の記者たちの目的ではなかったのです。かれらは、それよりもはるかに大きく、深い目的を持ってイエス・キリストの生涯の記録を書き残したのです。それは、イエス・キリストの生涯を通して全人類にあきらかにされた神の救いを人々に告げ知らせるということでした。

 「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子でキリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(新約聖書ヨハネによる福音書20章31節)

 これは、わたしたちが聖書を学にあたってたえずおぼえておかなければならないきわめてたいせつなことです。

 このようなわけで、福音書の記録はイエス・キリストの誕生から、ただちに成人したイエス・キリストの福音宣教の働きの描写に移ってゆきます。事実、四つの福音書のうちの二つまでが(マルコ、ヨハネ)イエス・キリスト誕生の記録さえも省略して、成人したイエス・キリストが福音宣教の働きを開始するところから筆をおこしています。

 それは、イエス・キリストの幼少時代や青年時代の言行にはなんの見るべきものがなかったからというわけでは決してありません。イエス・キリストの生涯は、それぞれの成長段階において完全であり、また充実したものでした。

 「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された。。」

     (新約聖書ルカによる福音書2章52節)

 「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。」(新約聖書ヘブル人への手紙2章18節)

とありますように、イエス・キリストもまた若き日のかずかずの苦楽と哀歓を経験されたのです。しかし、イエス・キリストは、むなしい幻想に生きようとしたり、無意味な焦燥感のうちに貴重な青春の日々を過ごすようなことをせず、一日一日をたいせつに生き抜き、やがてきたるべき大いなる決断の日に備えておられたのです。

 イエス・キリストが福音宣教の働きを開始したのは、およそ三十才のときであったとしるされていますが、(ルカによる福音書3章23節参照)「三十にして立つ」という論語の一節をまたずとも、三十才という年令がいわば人生の重大な転機であることはたしかです。人間の一生は、自分の意志によって選んだり拒んだりすることのできない誕生という運命的なできごとによって始まりますが、ひとたび始まった人生においては、自らの意志決定によって選びとらなければならない、いくつかの重大な局面にでくわします。生涯の目標と方向を定めさせる就職、生涯の伴りょを選びとらせる結婚とならんで、与えられた自分の人生に意味づけをしてくれる入信というできごともまた、人生の重大な転機のひとつなのです。

 三十才という年令は、これらの重大な選択がひとまず終わり、これまで自分が受け、また自分のものとして蓄積してきたものを、今度は他人に与え、還元する奉仕の生活にはいってゆく年令です。旧約聖書に、

 「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」(旧約聖書伝道の書12章1節)

とありますが、若き時代に生涯の目標と伴りょのみならず、イエス・キリストを信ずる信仰を持つことのできた人はなんとさいわいでしょうか。そのような人の前には、イエス・キリストの生涯のような有用、また有意義な生涯が待っているからです。

 イエスの受浸

 「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて言った、 『悔い改めよ、天国は近づいた』。……すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン付近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。」(新約聖書マタイによる福音書3章1節、2節、5節、6節)

 イエス・キリストの出現に先だって、バプテスマのヨハネという先駆者が現れ、その道備えをしていました。彼はヨルダン川のほとりで人々に悔い改めをうながす強烈な説教をし、罪の告白をした者には全身を水につけるバプテスマをほどこしていました。そこで、イエス・キリストが現れたのです。

 「そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、『わたしこそあなたからパブテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか』。しかし、イエスは答えて言われた、『今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである』。そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。」(新約聖書マタイによる福音書3章13節ー15節)

 この短い会話の中に、イエス・キリストのなみなみならぬ決意を読み取ることができます。たしかに、イエス・キリストが今選びとろうとしておられた生涯は、そのような決断なしには一歩も踏み出し得ないものでした。

 彼が送ろうとしておられた三年半の地上生涯は、決して栄光と栄誉に包まれたものではありませんでした。むしろ屈辱と悲惨が彼の運命だったのです。イエス・キリストのバプテスマには、すでに十字架の影がしのびよっていたのです。イエス・キリストはそのことを早くも予見しおられました。

 しかし、それにもかかわらず彼はその運命をまっこうから受けとめられたのです。彼は、罪のない神の子に罪の許しのためのバプテスマをほどこすことはできないとしきりに拒むヨハネをうながして、自らを水につけさせ、十字架の運命を敢然としてひきうけられたのです。

 イエス・キリストはバプテスマを受けられることによって、十字架を先取りされたのです。神の子イエス・キリストがなぜバプテスマを受ける必要があったのかという疑問を解くかぎは、実はそこにあるのです。イエス・キリストのバプテスマは、ひとつのジェスチャーとして示せされた単なる模範ではありません。それはイエス・キリストの高らかな宣言のように、「正しいことの成就」なのです。すなわち、神の子イエス・キリストが人間の救いのために罪人と同一であることをお求めになり、罪人の運命を甘受されたことを意味しております。神にとっての「正しいこと」とは神が罪人のごとくになり、罪人のために救いをもたらすことだったのです。

 人間の正義ーーそれは、正しいことを正しいと宣言し、不正なことを不正であると断ずること以外のなにものでもありません。しかし、それでは罪深いわたしたちにはなんの救いもないのです。この罪深く、しかし、それにもかかわらずその罪深さから自力ではのがれられないわたしたちが、なんとかして救われるためには、人間の正義ではなく、不義なる者を義とする神の正義が必要だったのです。

 「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。……しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」(新約聖書ローマ人への手紙5章6節、8節)

 イエス・キリストに出会った者は、彼を受け入れるか、拒むかのどちらかの選択をしなければなりません。バプテスマ(浸礼)は、このイエス・キリストに従う信仰の決断です。単なる形だけの儀式ではなく、イエス・キリストによる罪の許しを得た者が、バプテスマを受けることによって過去の自分と別れをつげ、新しい生涯に生まれ変わり、イエス・キリストによって成就された神の正しいことを力強く実行する人生の出発点に立つ信仰の成人式なのです。自ら信仰の決断のバプテスマを受けられたイエス・キリストは、今もわたしたちに向かって、これと同じ信仰の決断をするように迫っておられます。

 荒野のいざない

 イエス・キリストが人類救済のために立ちあがられたころ、ユダヤ民族の間には、メシア(救い主)を待望するせつなる声が聞かれていました。バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマと続いた列強諸国によるユダヤの征服と圧政は、民族の独立と誇りを奪い去り、ダビデ王時代の降盛と繁栄を失わせるものでした。彼らはなんとかして鉄の国ローマの首かせを取りはずし、民族の主権を取りもどそうと念願していました。

 このような長年の宿願を果たし得る民族のヒローーーそれがユダヤ人の心の奥深くはぐくまれてきたメシア像であったのです。かれらにとって、メシアとはダビデ王の再来のような連戦連勝の将軍であり、ソロモン王の再来のように賢く、また巧みに国を治める名君でした。かれらはまた、メシアが数々の奇跡を行い、物質的繁栄をもたらし、全世界を平定し、ユダヤの首都エルセレムにメシヤ王国の首都を構え、ユダヤ民族に栄と誉れをもたらすことを期待し、待望していたのです。

 当時、自らメシヤと名のるユダヤ人があちらこちらに現れましたが、そのいずれもがユダヤ人の期待にこたえることができませんでした。イエス・キリストがメシヤとしての働きを開始されてのは、まさにそのようなときであったのです。ですから、イエス・キリストにとっての最大の問題は、イエス・キリストのメシヤ理解が果してユダヤ人の期待にこたえられるものかどうかということでした。いわば、イエス・キリストの働きの成功、不成功はその一点にかかっていたのです。バプテスマを受けてヨルダン川から上がったイエス・キリストを待ちうけていた荒野のいざないは、イエス・キリスト自身のメシヤ理解をめぐる激しい内的な戦いであったのです。

 「さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい』。 イエスは答えて言われた、『「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と書いてある』。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、『もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。「神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石にうちつけられないように、彼はあなたを手でささえるであろう」と書いてありますから』。イエスは彼に言われた、『「主なるあなたの神を試みてはならない」とまた書いてある』。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう』。するとイエスは彼に言われた、『サタンよ、退け。「主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ」と書いてある』。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使いたちがみもとにきて仕えた。」(新約聖書マタイによる福音書4章1節ー11節) 

 イエス・キリストはバプテスマによって奉仕、苦難、犠牲の道を選びとられました。しかし、それは民族の栄光と誉れを熱望するユダヤ人の受け入れるものではなかったのです。ですから、もしイエス・キリストがかりにもその働きの成功を期待していたとしたなら、その近道はなんといってもユダヤ人の期待にそうような方法でその働きを続けることでした。石をパンにかえ、建物の頂上から人民の群がる広場に無事にとびおりるという二つの劇的なことがらは、当時、メシヤ出現のしるしとされていました。もしその二つを行うなら、瞬時にして、イエス・キリストは浮動的な大衆を自分のがわにひき入れ、また権威と伝統にたてこもるユダヤ民族の指導層の支持をも容易に手中におさめることができたのです。

 しかも、石をパンにかえ、建物の頂上から飛びおりるという行為自体は、少しもまちがったことではなかったのです。ひっきょう、彼がこの世界に誕生されたのは、人々とこの世界を自分のがわにひきよせるためであったはずです。「目的は手段を浄化する」とさえいわれているのですから、まして、人類救済という崇高な目的のためには、それが近道であるならなんのためらう必要があるのでしょうか。

 パンか神のことばか

 しかし、イエス・キリストはそれらを悪魔のいざないとして退けられました。たしかに魅力的な方法です。成功を保証するような計画です。しかし、ほんとうの信仰がパンやけばけばしい見せかけによって得られるものなのでしょうか。パンを保証すれば、魂の問題はあとかたもなく消えうせるものなのでしょうか。そうではありません。一時的な満足感は得られるかもしれません。しかしパンは必ずしも心の平和を約束するものではないのです。一時的な高揚と興奮をひき起こすかもしれません。しかしそれは人間を真に生かす論理的な力とはならないのです。

 メリケン粉クリスチャンという奇妙な人種がいました。第二次大戦後、キリスト教会には人々があふれました。アメリカからの食糧や衣類が無料でもらえたからです。しかし、世の中が安定し、暮し向きが楽になってくると、それらの人々はいつの間にか教会から遠ざかってしまいました。「衣食足って礼節を知る」ではありません。「衣食足って精神の貧しさ現わる」です。イエス・キリストはそのことをよく見抜いておられました。パンやけばけばしい見せかけは決して真の信仰を生み出すものではなく、また真の平安を保証するものでもないのです。

 イエス・キリストが樹立つしようとしておられたメシヤ王国は、まず神のことばの上にうちたてられるべきものでした。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」というイエス・キリストの決定的な宣言は、イエス・キリストのメシア王国の性格がどのようなものであるかを明らかに示しています。決してパンを否定せよということではありません。しかし、人間が真に人間であるためには、パン以外にもどうしても必要なものがあるのです。「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(新約聖書ガラテヤ人への手紙5章22節、23節)などによって生かされるとき、人間は初めて真の人間になるのです。「アーメン、ソーメン」という、ごろ合わせはキリスト教を冷笑したことばだそうですが、よく考えてみますと、これほどキリスト教の本質をうまく言い現したことばはほかにないと思います。人間が真に人間であるためには、ソーメンだけではなくアーメンもまた絶対に必要なのです。イエス・キリストはその二つのうち、人類が長い間忘れ、見失ってしまっていたアーメンの重要性を知らせるために、その生涯をかけてお働きになったのです。

 イエス・キリストは実にこの点ではげしく試みられました。パンを用いるほうが自分の使命を達成するためにはたしかに手っ取り早く、確実に見えたのです。人間はぎりぎりの状況に追いこまれますと、「命あってのものだね」と考えるものです。まず生きぬくこと、とにかく生命を全うすることが人間の先決問題なのですから、胃袋のほうをさきにするほうが、はるかに現実的なのです。

 しかし、イエス・キリストは人間性の弱さ、愚かさを知っておられました。「のどもとすぎれば熱さ忘るる」のたとえのように、あとまわしにされた心の問題はすっかりなおざりにされ、気づいたときには、全く荒廃しきった自分の空虚な心の状態にただ驚きまどう人間の愚かしさを見抜いておられたのです。

 イエス・キリストのこの荒野の試みがどれほど激しかったかを考えれば考えるほど、その試みに勝利されたイエス・キリストの偉大さに驚異の念をおぼえます。「人はパンだけで生きるものではない」という、しごくあたりまえな、しかしひどく実行困難なことをイエス・キリストは力強く実行されました。パンの問題がどれほどさし迫った、切実なものであるか、わたしたちはよく知っています。しかし、その事実をふまえながらも、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と確言できるのは、イエス・キリストがこの決断の上に樹立されたメシヤ王国にわたしたちひとりびとりを招いてくださっているからなのです。

 バプテスマ、荒野のいざないと続いた信仰の決断に固く立ち、勝利されたイエス・キリストは、今わたしたちに同じような決断を迫っておられます。それは、パンを求めるあくせくした日々にあけくれる人生から、神のことばによってささえられ、生かされる人生に生まれ変わっていく信仰の決断です。真に生きることーーそれは神のことばによって生かされることです。イエス・キリストの決断にならって、わたしたちも神のことばにたよろうではありませんか。


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