キリストへの道

第10課 神についての知識

1.自然の声

 神は多くの方法を用いてご自身を知らせ、わたしたちを神との交わりに導いています。自然は絶えずわたしたちの感覚に話しかけていますから、心をひらいているなら、神のみ手のわざにあらわされた神の愛と栄光に強く打たれるのです。また、耳を傾けて聞くなら、自然界を通して神が語られているのを知ることができます。緑の野、大きな樹木、花やつぼみ、過ぎゆく雲、雨のしずく、ささやく小川、天の栄光などはみなわたしたちの心にささやいて、これらすべてを創造された神を知るようにと招いています。
 わたしたちの救い主は、自然界の事物に関係をつけて尊い教訓を語られました。木や鳥、谷間の花、丘や湖、美しい天、それから日常のいろいろの出来事などをみな、真理のみ言葉と結びつけて、人々がどんなに忙しい仕事に追われているときでも、その教訓を思い出すことができるようにしました。
 大教師イエスは聴衆を自然の事物に接触させて、あらゆる被造物の中に語られている声を聞かせ、そうして彼らが優しい感情と素直な心を持ったときに目の前にながめている自然の風物から霊的な教えを解釈させました。キリストが真理についての教訓を教えるのに好んで用いられたたたえ話は、キリストのみ心がどんなに自然の影響に向かって開かれていたか、またキリストがどんなに日常生活の環境から霊的な教えを集めることを楽しんでいたかということを物語っています。
 空の小鳥、野のゆり、種と種をまく人、羊飼いと羊、──こうしたものを用いて、キリストは不滅の真理を説明されました。彼はまた日々の生活に起こる出来事、すなわち聴衆が見聞きしている実際の経験──パン種、かくれた宝、真珠、漁師の網、失われた銀貨、放蕩むすこ、岩の上と砂の上に建てられた家などといったような者から例話を引かれました。キリストの教訓の中には、ひとりびとりの心に興味を起こさせ、ひとりびとりの感情に訴える何物かがありました。このようにして、日々の仕事は、高い理想の失われた単なる骨折りの繰り返しとならないで、絶えず目に見えない霊的なものを心に思い出すことによって明るくそして向上したものとなりました。
 私たちもこのように教えなくてはなりません。自然の中に神の愛と知恵のあらわれを見、鳥や花や木に結びつけて神を思い、目に見えるすべてのものが、目に見えないものの解説者となり日々の生活の出来事を通して神の教えを知ることを、子供たちに教えなければなりません。
 このようにして、あらゆる被造物とあらゆる生活経験から教訓を学ぶとき自然の事物と生活の出来事を支配している同じ法則によって、わたしたちもまた支配されなければならないということ、しかもそれらの法則は、私たちの幸福のために与えられているのであって、この法則に従うときにのみ、私たちは真の幸福と成功を見いだすことができるということを示さなければなりません。 自然の中に父なる神のみわざを認める者や地の富と美しさの中に神の筆跡を読む者だけが、自然の事物からもっとも深い教訓を学び、その最高の奉仕を受けます。山や谷、海や川を神の意志の実現また創造主の啓示としてみる者だけが、その意義をほんとうに理解することができるのであります。(教育123、124,144ページ)

2.神の耐えざる保護

 神は、わたしたちがみ手のわざを尊重し、また、わたしたちの地上の住み家を単純に、しかも落ちついた美しさをもって飾ってくださったことを感謝することを望みます。神は美を愛されますが、外面的のどんな美しさよりも、品性の美を愛されます。神はわたしたちが、花のように、純潔、単純で、静かなやさしさを養い育てるように望んでいます。
 また、わたしたちが耳を傾けさえすれば、神の創造のみわざは、従順と信頼の尊い教訓を教えています。広漠たる天空にあっても、昔から定められた軌道を進む星から、とても小さな原子に至るまで、自然界のものはみな創造者のみ旨に従っています。神は、創造されたすべてのものを守りささえています。広い宇宙の無数の諸世界をささえられる神は、同時になんの恐れもなくさえずっている小さなすずめの必要をも顧みられるのです。
 イエスは2羽のすずめを引用して、それによって神が人間ひとりびとりに対して、やさしい気づかいをしておいでになることを、美しく教えました。神は
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(マタイによる福音書10章29節とおおせになっておられます。
 これをルカによる福音書12章6節に対照してみると、興味深いものがあります。そこには、「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか」としるされています。これによって、古代イスラエルでは、すずめがどのくらいに価値づけられていたかを知ることができます。2羽のすずめは1アサリオンで売られていました。しかし買い手が2アサリオン支払えば、4羽ではなく5羽を手に入れることができたのです。つまり、この5番目のすずめの価値は、取るに足らないものでありましたから、そのためにはお金を払う必要はなかったのです。
 しかしイエスは、かれに耳を傾ける者に向かってこう言われます。「だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」(同6節下句)と。
 なお続いてイエスは、もっと明白にこれを印象づけるために、次のような言葉を持って私たちの確証を与えておられます。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(同7節)
 人が一日の働きに出て行くときも、祈るときも、よる休むときも、朝起きるときも、または、金持ちが宏壮な邸宅でふるまいをするときも、貧しい人が子どもたちを集めて粗末な食事をするときも、その一つ一つを天の父はやさしく見守っています。どんな涙も神の目にとまらないものはなく、どんなほほえみも見過ごしにされることはありません。
 もしも、わたしたちがこうしたことを信じるなら、よけいな思いわずらいはなくなります。そして人生も今のような失望ばかりではなくなります。神はどんなに心配や苦労をかけても、それに圧倒されたりはしません。ですから、どんなに大きなことも小さなことも、すべて神のみ手に任せることができるのです。こうしてはじめて、わたしたちは多くの人々が、長い間知らなかった心の平安を味わうことができるのです。
 この地上の美しさに心が魅せられるとき、罪にも死にもむしばまれないきたるべき世界のことを考えてみましょう。すると、そこには、もはやのろいのかげはみられません。なお、救われた者の家庭を考えてみましょう。それは、どんなにすばらしい想像もとうてい描き出すことができないほどのりっぱなものであることをおぼえましょう。神は自然界を美しく飾られますが、それでも、わたしたちは、神の栄光のほのかな光を見ているにすぎないのです。聖書には「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(コリントの信徒への手紙第一2章9節)としるされています。
 世の詩人や博物学者は、自然について多くのことを歌いあるいは語りますが、本当に鑑賞する力をもってこの地上の美を楽しむことができるのはクリスチャンだけです。なぜなら彼らは天の父のみ手のわざを認め、花や木にあらわれた神の愛を認めるからです。丘や谷や川や海をながめても、それが人類に対する神の愛のあらわれであるとみとめない人は、その存在の意義を十分に悟ることはできません。
 神は、摂理を通し、または心にささやく聖霊の感化を通して語られます。わたしたちの事情や環境、つまり、わたしたちのまわりで毎日起こっている変化の中にも、わたしたちが心を開いて見ようとさえすれば、尊い教訓を得ることができます。詩編記者は神の摂理の働きの跡をたどって「地は主の慈しみに満ちている」(詩編33編5節)。「知恵ある人は皆、これらのことを心に納め、主の慈しみに目を注ぐがよい」(詩編107編43節)と言っています。

3.聖書の中の神のみ声

 神は、み言葉、聖書をもってわたしたちに語っています。み言葉は、神のご品性、神の人類を扱われる方法、また贖罪の大業をもっとはっきりした言葉で啓示しています。そして父祖たちや預言者たち、また、昔の聖者たちの歴史が繰り広げられています。彼らは「わたしたちと同じような人間」(ヤコブの手紙5章17節)であって、わたしたちと同じように失望と戦い、また、わたしたちと同じように誘惑に負けたけれども、再び勇気を出して、神の恵みによって勝利を得たことを知るとき、わたしたちも義を追い求めて戦っていかなければならないと励まされるのです。
 たとえば、モーセの失敗を考えてごらんなさい。民数記20章7節〜12節の記録にあるように、彼はイスラエルの民のつぶやきの前に、神のいましめを破りました。その結果として、彼は自分の民をカナンの国に導き入れることもゆるされずに、死ななければなりませんでした。(申命記34章5節、6節参照)しかしながら、イエスのご在世当時、モーセはエリヤと共にイエスに現れました。これはとりもなおさず、モーセが死んで葬られた後によみがえらせられ、今は天にいるという事実を裏づけるほかなりません。
 サムエル記下11章、12章には、ダビデ王の二重の大罪、殺人と姦淫についての記録がありますが、後にかれはけんそんに悔い改めました。その証は詩編51編が明らかにしています。終始、神はダビデを愛しました。後年、ダビデの心を表すのに「自分の神、主と一つ」(列王記11章4節参照)とまで言われるほどでありました。このようにして、一番の弱みであった罪に勝利したダビデを、私たちは知っています。
 ヨセフの経験はというと、兄弟の手で奴隷に売られ、(創世記37章参照)エジプトの国では、誤解によって獄に投ぜられました。(創世記39,40章参照)しかし神はかれと共におられたのであります。聖書の記録は彼の罪についてではなく、むしろ彼の激しい試練や、悩みの時にもいかに神への信頼を保ち続けたかについてしるしています。創世記の最後の数章は、ヨセフがエジプトの国の高官として仕えた、繁栄の時代について述べ、彼が支配をゆだねられた国を7年の飢饉から守り、彼の兄弟とも再会し、しかも、父親をエジプトに招いて、余生を送らせることもできたとしるしています。
 使徒パウロは、なぜ聖書の中に古い時代の聖なる男や女の経験が記録されているかについて、次のように説明しています。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです」(コリントの信徒への手紙10章11節)と。神は私たちをそのみ心に留めてくださるのです。
 彼らが与えられた尊い経験を読み、彼らが受けた光と愛と祝福について学び、彼らが与えられた恵みによって行った働きについて読むとき、彼らに霊感を与えた同じ精神が、わたしたちの心にもそうしたいという励む気持ちを起させ、彼らの品性に似て、彼らのように神と共に歩みたいと望むようになります。

4.聖書研究の価値

 イエスは、旧約について「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネによる福音書5章39節)と言われましたが、新約については、なおいっそうそうであるといわなければなりません。わたしたちの永遠のいのちの希望はあがない主なる主にあります。まったく聖書全体がキリストについて語っています。「万物は言によって成った」(ヨハネによる福音書1章3節)という創造の最初の記録から「見よ、わたしはすぐに来る」(ヨハネの黙示録22章12節)との最後の約束にいたるまで、わたしたちはキリストのみわざについて読みキリストのみ声を聞くのです。もし救い主を知りたいと思えば、聖書の研究をするにまさるものはありません。
 神のみ言葉を心に満たしましょう。神のみ言葉こそはかわきをいやす生ける水です。また、天からの生けるパンです。イエスも「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(ヨハネによる福音書6章53節)と言われました。そして、それを自ら説明して「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネによる福音書6章63節)と言われたのです。わたしたちのからだは、わたしたちが飲み食いする物から成り立っています。霊界においても自然界と同じであって、わたしたちの考える事柄がわたしたちの霊性に力と健康を与えるのです。
 さて、贖罪問題は、天使たちも研究したいと望んでいるもので、それは永遠にわたってあがなわれた者の科学であり歌です。ですから贖罪の問題は今でも熱心に研究する価値があるのではないでしょうか。イエスの無限のあわれみと愛、またわたしたちのために払われた犠牲はわたしたちがまじめに考えなければならない問題です。わたしたちは愛する、あがない主、また仲保者のご品性をよく考え、民を罪から救うためにこの世にこられたその使命を深く瞑想しなければなりません。こうして天の事柄を考えるとき、わたしたちの信仰と愛はますます強くなり、わたしたちの祈りはいよいよ神に受け入れられるものとなります。というのは、もっと信仰と愛とが祈りのうちに織り込まれるようになるからです。その祈りは理知的な祈りとなり、熱誠なものとなります。そしてイエスをいよいよあつく信じ、日ごとに彼によって神に来る者をすべて完全に救われるイエスの能力を身をもって経験するようになります。
 救い主の完全さを瞑想するとき、わたしたちも完全に変えられて救い主の純潔なかたちに造りかえられたいと望み、あがめまつる救い主のようになりたいと飢えかわくごとく願うようになります。キリストのことを考えれば考えるほど、キリストのことを他の人に話すようになり、世の人々にキリストを代表する者となります。
 聖書は、学者のためだけに書かれたのではありません。むしろ、一般の人のために書かれたものであって、救いに必要な大真理は、真昼のように明らかにしるされています。人がこのはっきりとあらわされた神のみ心を捨てて、自分の判断に従ったりしないかぎりは、だれも誤ったり、道を見失ったりすることはありません。
 聖書の教えていることについては、人のあかしに頼ったりせずに、自分で神のみ言葉を研究しなければなりません。もし、わたしたちが当然自分で考えるべきことを他人に任せるようでは、せっかくの精力はそがれ、才能は衰えてしまいます。尊い脳力も、集中して思考する価値ある問題がないために萎縮し、ついには、神のみ言葉の深い意味を握る力を失ってしまいます。聖句と聖句を対照して、聖書の問題がどう関連しているかを研究するなら知力は必ず発達します。
 聖書の研究ほど知力を強めるのに適切なものはありません。どんな書籍でも、聖書の広範、高尚な真理ほど、人の思想を高め、才能を強めるものはありません。もし、神のみ言葉を正しく研究するなら、人は広い知力と、高尚な品性、確固たる目的をもつことができますが、今日そうした人は非常にまれです。

5.聖書研究の精神

 ただ、聖書を急いで読んだだけではほとんど益はなく、たとえ聖書全体を通読しても、その美しさを認めることができず、奥深いところにかくれた意味を了解することができないのです。しかし、わずか一節でも、その意味が心にはっきりするまで研究し、それと救いの計画との関係を明らかにすることは、多くの章を定まった目的もなく、なにもこれといった教訓も得ないで読むよりはるかに価値があります。いつも聖書を持って、機会があるごとに読み暗誦しましょう。たとえば道を歩いているときでも、一節でも読んでこれを黙想すると、それが頭に残るものです。
 熱心に祈りと共に学ばなければ、知恵を得ることはできません。聖書にはわかりやすく書かれていて、まちがう余地がないところもあれば、また、表面に意味があらわれていなくて、一目見ただけでは少しもわからないところもあります。聖句は聖句とよく比較して、注意深く研究し、祈りのうちによく考えなければなりません。そのような研究は豊かに報いられます。鉱夫が地下深く掘り下げて、かくれている尊い鉱脈を発見するように、しんぼう強く、神のみ言葉をかくれている宝のごとく捜すなら、不注意な探究者の目にはとまらない価値ある真理を発見することができます。そして、心の中で熟考された霊感によるみ言葉は、いのちの泉からわきでる流れのようになるのです。
 聖書は、決して祈りをささげずに研究してはなりません。ページを開くときは、聖霊の導きを祈らなければなりません。この導きは必ず与えられます。ナタナエルがイエスの許にきたとき、救い主は、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と賛嘆の叫びをあげました。ナタナエルが「どうしてわたしを知っておられるのですか」と尋ねると、イエスは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハネによる福音書1章47節、48節)と答えられました。わたしたちも、真理を知ることができるようにと光を求めるなら、イエスはわたしたちが祈りの密室にあるのをみられます。心を卑しくして神の導きを求める者には、天使が光の世界から送られるのです。
 聖霊は救い主をあがめ、救い主に誉を帰します。またキリストとその純潔な義をさし示し、キリストによってわたしたちに与えられる大いなる救いを示すのがその役目です。イエスは「わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」(ヨハネによる福音書16章14節)と言われました。真理の霊だけが、神の真理をほんとうに教えることのできる力ある教師です。神が人類のためにそのひとり子を与えて死なせ、また、聖霊を賜わって人の教師とし、絶えざる案内者となられることから見て、どんなに人類を価値あるものと判断したのかがわかるのです。

第10課 瞑想の聖句

 「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」(ヨハネによる福音書5章39節)
 聖書の訴えはいずれの人種にも、またいずれの国にも一様であります。神の与えたもう聖書は全人類のものであり、また、各時代に貢献するものであります。聖書の中心思想は救いの計画のうちにあらわされている愛であります。
 救いに関する最初の記述は、創世記3章15節に与えられ、女のすえ(キリスト)が、へび(サタン)のかしらを砕くであろうと約束されました。それ以来、聖書の物語の中に全世紀を通じて罪深い神の子らを見そなわしたもう救い主の、愛と忍耐と絶えることのない慈愛の跡をたどることができるのであります。最後には、黙示録の章を閉じるにあたって、天における神の教会の勝利の預言、イエスの十字架によって救われた教会が出現し、ヨハネは熱烈な祈り「主イエスよ、来てください」とその書を終わっているのであります。(ヨハネの黙示録22章20節参照)
 キリストの教えは、その同情心と同じように世に行き渡りました。どんな生活環境も、どんな人生経験の危機も、キリストの教えの中に道が示され、その原因の中に教訓が与えられています。大教師イエスの言葉は、キリストと共に働く者にとって、世の終わりまで一つの指針となるでしょう。
 キリストにとっては、現在も未来も、遠いものも近いものも同じでありました。キリストはすべての人の必要を念頭に置かれていました。彼の心眼には、人間の努力と業績、試練と戦い、混迷と危機の、あらゆる光景が展開されていました。彼はどんな心も、どんな家庭も、どんな喜びも楽しみも願いも、すべてご存じでありました。
 キリストはすべての人のためにお語りになったばかりではなく、すべての人に向かって話しかけられました。人生の輝かしい朝を迎えたばかりの幼児たちに、熱心でそして何かしないではいられない心を持った若い人たちに、疲れ弱っている老人たちに、キリストのみ言葉はすべての人たちに向かって語られました。それはすべての人に、国と時代を問わず人類のひとりびとりに向かって語られた言葉でありました。(教育97ページ)
 聖書を心から忠実に研究して、イエスに尋ね会い、イエスを私たち自身のものとしようではありませんか。

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