キリストへの道

第5課 献身

 ずっと大昔、エルカナという祭司が、二人の妻と共に、イスラエルの国、エフライムの山地に住んでいました。祭司であった彼は、毎年シロに上って行っては、定められた期間中、神殿の中で宮の行事をつかさどり、また、自分自身のためや家族のために、神に犠牲の動物をささげていました。
 かれは、年ごとに家を留守にすることを不安に思うようになりました。というのは、二人に妻の間に不穏な感情が、次第につのってくる様子が見えてきたからであります。お互いに、ねたみ合い反目し合っては口論やあらさがしの絶え間がありませんでした。
 エルカナは、それが何に起因しているかをよく知っていました。妻の一人ハンナには、子供がありませんでしたが、もう一人の妻ペニナには、幾人かのむすこや娘があったからなのです。聖書はそれについて、「彼(エルカナ)はハンナを愛していたが、主はハンナの胎を閉ざしておられた。」(サムエル記上1章5節)
 子供は神より与えられる祝福であって、神に受け入れられているか否かによって、子供の数が左右されると考えられていた時代であって、ペニナは、一見するだけでも自分の方が、ハンナよりはるかに優れているのだという優越感を抱いていました。彼女は誇り、自分は子供のないハンナよりも、神に認められ、受け入れられているということを見せびらかしていました。ハンナはもはや、心穏やかに暮らすことはできませんでした。
 彼女の夫は、ハンナを慰めようとして、「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか」ともうしました。(サムエル記上1章8節)
 しかしハンナの心の苦痛は和らげられませんでした。そうした時にあたって、ハンナは心の中で、いまだかつてなかったほど熱心に神を求め、また、神に祈ろうと思いました。そして祭司の夫と共にシロに上り、だれにも自分の決心を明かすことなく、神に祈るために神殿の中へ入ってゆきました。
 ハンナは祈りました。心からの祈りでした。神に、むすこを与えてくださいと懇願したのであります。
 「そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません』」(サムエル記上1章11節)
 記録はなお続けられています。
 「それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった」(サムエル記上1章18節)
 次の日、一家の者はラマにある家へと帰ってゆきました。ついに時がきて、ハンナに息子が生まれましたが、神に対する誓約を忠実に果たすために、彼女はこのかわいい子供サムエルを神にささげたのであります。彼は後に偉大な預言者となって、祈りの力の生きた証となりました。

1.祈りを聞いてくださる神

 サムエル記上の1章に記録されているハンナの経験は、単純なものでありますが、その中に、多くのとうとい教訓がはっきり教えられています。その一つは、私たちのすべての問題は、神の前に持っていかなければならないということです。神は助けてくださるのです。もう一つは、神が私たちの祈りをよろこんで聞いてくださるようにと、自分の体をさいなんだり、難行したりする必要はないということであります。必要なのは、ただ神に祈ることであります。
 神は高き天にいらっしゃいますが、つねに私たちのそば近くにいてくださいます。私たちは、ただ自分の必要を認めて、神に呼び求めればよいのであります。神は聞きとどけてくださいます。
 神は、「心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」(エレミヤ書29章13節、14節)と約束されました。
 このみ約束は、広範囲に人間の必要の全般にわたるものであります。愛する者の安全を願うことであれ、家族の健康のためであれ、また、全世界への福音宣教に関することであっても、神は必要なすべてを与えようとしておられます。しかしながら、ほかのどのような希求にもまさって、私たちの最急務とするところは、私たちが神のみかたちに回復されるということの必要であります。
 私たちは、一切の望みから断ち切られている罪人であります。自分自身で何一つできないものであるかぎり、どうしても神の助けを求めなければなりません。とりわけ罪との戦いの中にあって、神の助けがどうしても必要であります。もしこれがなければ、必ず破滅してしまいます。ですから自分の必要を認めるならば、神を呼び求めて、自分の分を果たさなければなりません。

2.神に全身をささげる

 わたしたちは全身をささげて神に従わなければなりません。さもなければ、わたしたちを神のみかたちに回復する変化は起こらないのです。わたしたちは、生まれながら神から遠ざかっています。聖霊はわたしたちの状態を次のように言っています。「自分の過ちと罪のために死んでいた」(エフェソの信徒への手紙2章1節)。「頭は病み、心臓は衰えているのに。頭から足の裏まで、満足なところはない。」(イザヤ書1章5節、6節)と。わたしたちはまったく「悪魔に生け捕りにされて」(テモテへの手紙第二2章26節)彼の思いのままに、しっかりととりこにされているのです。神はわたしたちをいやし、解放しようと望んでいます。けれどもこれには完全な改革、つまりわたしたちの性質を全然新しくしなければなりませんから、わたしたちは自分を完全に神にささげなければなりません。
 自己との戦いは最も大きな戦いです。自己に打ち勝ち、神のみ心に完全に従うには戦いを通らなければなりません。しかし神に服従しなければ、魂が聖化されることはできないのです。
 神の政府は盲従を要求し、不合理な統制を行おうとする者であると悪魔はわたしたちに思わせようとしますが、そうではありません。それは知性と両親に訴えるものです。「論じ合おうではないか」(イザヤ書1章18節)と、創造主はわたしたちを造られた者を招いています。神は決して造られた者の意志を強制したりしません。真心より、自らよく理解したうえでの服従でなければ、神は受け入れません。単なる強制的服従は知性や品性の真の発達を妨げるものであって、人を一つの機械人形にしてしまいます。創造主はこのようなことを望みません。神は創造の極致である人間が最高の発達を遂げることを望まれます。神はわたしたちの前に最高の祝福をおかれて、恵みによってわたしたちをそこまで導こうとします。またわたしたちのうちに彼のみ心を行うことができるように、自分を神にささげなさいとすすめます。罪のきずなから放たれて、神の子としての栄えある自由を味わうか否かは、わたしたちの選択にかかっています。
 神に自分をささげるには、わたしたちを神から引き離すものをすべて捨てなければなりません。ですから、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(ルカによる福音書14章33節)と救い主は言われたのです。
 たとえ、どんなものであっても神から心を引き離すようなものは捨てなければなりません。
 非常な財産家で責任のある地位を占めていたある若者は、キリストがご自分のもとに連れてこられた子供たちに対してあらわされた愛を知りました。キリストがやさしく子供たちを迎えて、その腕にだきあげられるのを見て、彼の心は救い主に対する合いに燃えました。そして彼はキリストの弟子になりたいという願いを感じました。深く心を動かされた彼はキリストが道を歩いておられる時、後を追いかけていって、その足下にひざまずき、彼の魂にとって、また人類のひとりびとりにとって重要な質問「善い先生、永遠の生命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコによる福音書10章17節)ということを、真心から熱心に尋ねました。
 この質問に答えて、イエスは、もし彼が永遠の生命を得たいなら、神のいましめに従うことが必要であるとお告げになりました。そしてイエスは、同胞に対する人の義務をあらわしている幾つかのいましめを引用されました。若者の答えは肯定的で「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(ルカによる福音書18章21節)「まだ何か欠けているでしょうか」(マタイによる福音書9章20節)といいました。
 イエスは彼を愛され、彼の品性を実質的に帰るような平安と恵みと喜びを与えたいと熱望されましたので「あなたに欠けているものが一つある」(マルコによる福音書10章21節)「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(マタイによる福音書19章21節)とイエスはいわれました。
 キリストはこの若者の心を読まれました。彼にはただ一つ足りないことがありましたが、しかしそれは重要な原則でありました。彼はその心の内に神の愛が必要でした。この足りないところを補われなければ、それは彼にとって致命的となるのであります。
 キリストはこの若者がクリスチャン品性を完成できるただ一つの条件を示されました。キリストのみことばは、きびしく教養的に思えましたが、しかしそれは知恵のことばでありました。この若者が救われる唯一の望みはそのみことばを受け入れ、これに従うことにありました。彼の高い地位と財産が、彼の品性に微妙な悪い影響を及ぼしていました。そうしたものに執着していると、彼の愛情の中から神が押しのけられるでしょう。多くても少なくても、神に差し出さないでおくことは彼の道徳的な力と能力とを低下させるようなものをとどめておくことであります。なぜならこの世の物を大事にしていると、それがどんなに当てにならない無価値なものであっても、それはすっかり心を奪うようなものとなるからであります。
 若者はキリストのみことばの意味を全部すぐに悟って、悲しく思いました。彼は天の宝が欲しかったと同時に、自分の富によってもたらされるこの世の特典も欲しかったのでした。彼は永遠の生命を望みましたが犠牲は払いたくなかったのでした。永遠のいのちの代価は大きすぎるように思えました。そこで彼は「悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」(マタイにによる福音書9章22節)。
 この若者に対するキリストの態度は一つの実物教訓として示されています。これはただ義務的に従うことではなくて、生命へいたる服従であって品性にあらわされます。神は神の国の民になりたいと望むすべての人のために、品性についての神ご自身の標準をおたてになりました。このわかもとの同じように、高い信任の地位にあって大きな財産を持っている人々にとっては、キリストに従うためにすべてを放棄することは犠牲が大きすぎるように思えるかもしれません。しかし、これはキリストの弟子になりたいと望むすべての人の行為の法則であります。服従に欠けるものは何も受け入れられません。自我を屈服させることがキリストの教えの本質であります。それはしばしば高圧的とも思えるようなことばで示されたり、命じられたりします。なぜなら心の内にいだかれるとき全人格を破壊するようなものを切り捨てる以外に、人を救う道はないからであります。

3.神を第一に

 多くの人は富を偶像にしています。金を愛し富を欲することは彼らを悪魔につなぐ黄金のくさりです。ある人々は名声や世的な栄誉を神としています。また、なんの責任も負わず、利己的な安楽な生活を偶像にしている人もいます。けれども、こうしたどれいのきずなは断ち切らなければなりません。わたしたちは、なかば神に、なかば世につくことはできません。完全に神のものでなければ神の子どもではないのです。神に仕えていると公言しながら自分の努力によって神のおきてに従い、正しい品性を形づくり、救いを得ようとしている人がいます。このような人たちの心は、キリストの愛に強く動かされたのではありません。天国にはいるために神が要求されるものであるからというわけで、クリスチャン生活の義務を遂行しようと努めているにすぎません。そのような宗教はなんの役にも立ちません。もしキリストが心に宿るなら、魂は彼の愛と、彼との交わりをより来る大きな喜びに満ちあふれて、キリストに結びつき、彼を熟視して自分を忘れてしまいます。そしてキリストへの愛が行動の源泉となります。神の強く迫る愛に感激した者は、どのくらいささげれば神のご要求を満たすことができるだろうかなどと最低の標準を尋ねたりしないで、あがない主のみ心に完全に服従したいと望みます。熱心に、希望にあふれてすべてをささげ、彼らが求めている価高いものにふさわしい関心を示します。この深い愛がなくて、キリストを信じると告白することは単なる話だけであり、無味乾燥な形式、また重苦しい苦役です。 
 あなたはキリストに完全に服従することは、あまりに大きな犠牲であると感じるでしょうか。「キリストはわたしになにを与えてくださったか」ということを考えていただきたいのです。神のみ子は、すべてのものを――いのちと愛と苦しみとを――わたしたちをあがなうために与えられました。こうした大きな愛の対象としてはあまりに無価値なわたしたちが、自分の心を神にささげないでいられるでしょうか。わたしたちは、生涯の一瞬一瞬、キリストの恵みをこうむって生きてきました。わたしたちは、自分たち罪が刺し通したキリストをながめながら、彼の愛と犠牲を侮辱することができるでしょうか。栄光の主の限りないへるくだりをよく知りながら戦い、そして自分自身を卑しくしなければ、いのちに入ることができないと言って、つぶやいてよいものでしょうか。
「悔い改めて心を卑しくなければ、神に受け入られたという保証がえられないのは、どうしたことだろう」と尋ねる高慢な人が多くいます。そういう人はキリストを見ましょう。彼は罪を犯さなかったばかりでなく、天の王子でしたが人類の身代わりとなって罪人となりました。「罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをした」(イザヤ書53章12節)。
 わたしたちがすべてをささげると言っても、いったいなにをささげるのでしょう。それは、イエスにきよめられ、その血によって洗われ、彼の無比の愛によって救われるためにささげる罪に汚れた心だけです。それなのに人々は、それを捨てがたいと思っています。わたしはそういう話を聞き、また書くことさえ恥ずかしいのです。
 神は、わたしたちが持っていて益になるものは、なにひとつ捨てるようにとは求めません。なにをするにも、いつもその子どもたちの幸福を考えています。自分が今求めているよりはるかに良いものを神は備えているということを、キリストを選んでいないすべての人が悟られるように望みます。人は神のみ心に逆らって考え、行動するとき、自分の心に大きな害を及ぼしています。なにが最善であるかを知り、造られたものの幸福のために計画している神が禁じられる道には、ほんとうの喜びを見いだすことはできません。罪の道は、悲惨と滅亡の道です。
 神はその子どもたちの苦しむのを見てお喜びになると考えるのは誤りです。全天が人の幸福に関心をもっているのです。わたしたちの天の父はだれにでも喜びの道を閉じることはありません。しかし苦しみと失望をもたらし、幸福と天国への戸を閉じてしまうようなことにふけってはならないとわたしたちを戒めています。不完全で弱く、欠点があるそのままの姿で人々を受け入れ、これを罪からきよめ、その血によってあがなわれたばかりでなく、世の救い主は彼のくびきを負い、その荷をになうすべての者の心の欲求を満たしてくださいます。いのちのパンを求める者に、平和と平安をお与えになるのが神のみこころなのです。また、不従順な者には決して到達できない、この上ない祝福を与える義務だけをわたしたちが尽くすよう神は求めています。心の真の喜びは、栄えの望みであるキリストを心の中に形づくることです。

4.意志の力

 「わたしはどうすれば神に自らをささげることができるでしょう」と、尋ねる人が多くあります。そして、自分を神にささげたいと望んでいながら、道徳的なちからが弱く、疑惑のどれいとなり、罪の生活の習慣に支配されています。どんな約束も決心も、砂のなわのように弱く、自分では自分の思想、衝動、愛情を制することはできません。こうして約束を破り、誓いを裏切って自分の誠実さに自信がもてなくなり、神は自分を受け入れてくださらないのではないかと思うようになります。しかし絶望するには及びません。ただ必要なのはほんとうの意思のなんであるかを知る事です。意思とは人の性質を支配している力、決断力、選択の力です。すべてはただ意思の正しい行動にかかっているのです。神は人間に選択の力を与えられました。つまり人がそれを用いるように与えられたのです。わたしたちは自分の心を変えたり、また自分で愛情を神にささげることはできません。けれども神に仕えようと選ぶことはできます。意思は神にささげることができます。そうすれば神はわたしたちのうちに働かれ、神の喜ばれるように望み、また行うようにしてくださいます。こうして性質は完全にキリストのみたまに支配されるようになり、キリストが愛情の中心となり、思想もまた彼と一致するようになります。
 善ときよきを望むのは正しいことですが、そこでとどまるならなんの役にも立ちません。クリスチャンになりたいと望みながら、滅んでいく人が多いのです。彼らは神に自分の意思をささげるところまでこないからです。つまり彼らは、いまクリスチャンになることをえらばないからです。
 意思を正しく働かせるなら生活はまったく変ってしまいます。意思をキリストに完全に服従させることによって、どんな主義よりも力よりも、はるかにまさった力に自分を結びつけることになるのです。そして天からの力を得てしっかりと立つことができ、絶えず神に服従することによって新しい生涯、すなわち信仰の生涯を送ることができるようになるのです。

もっとも大いなる愛

 「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない・・・それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙第一13章1〜8節、13節)

第5課 瞑想の聖句

 「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書10章39節)
 これは聖書の中に見られる、珍しい逆説の一つであります。奇妙な言い方がしてあるこの命は、人間が不思議な方法で、最も大切にしている所有物であります。この聖句の中にキリストが仰せられていることは、人がその命を神のために失うことは、つまり命を得ることであると述べています。これはいったい、何を意味しているのでありましょうか。
 無我の人として、世界にその名を知られている故アルバート・シュバイツァー博士について考えてみましょう。彼は、生まれながらの天才であり、音楽家として、詩人として、また、哲学者、教授、神学者、科学者、そして医者としても、めざましい天与の賜物を持っていた人でした。いずれの分野においても、彼は自分自身を満足させるために用いようとはしなかったのであります。
 彼がアフリカに行こうとした時、友達は彼に忠告して、その生涯が無駄に費やされること、彼の才能がむなしくうもれてしまうことを説いて反対しました。にもかかわらず彼は、友達のもっともらしい忠告には耳もかさず、ヨーロッパにおける名声や富をあとにして、妻と共に暗黒大陸にわたりました。彼はその地の、もっとも助けを必要としている地方に居を定め、その生涯を終えるまで人類の向上のために、おのれを捧げたのであります。
 人間の立場から見れば、彼はその命を失ったかのように見えます。がしかし、シュバイツァー博士の行跡は高くかかげられ無我の奉仕の偉大さは、後世にまでたたえられることでしょう
 初めには、この世に生存することの真の意味を得るために、自己満足の生活を失うというふうに考えます。しかしながらイエスは、この生活が永遠にまで至るものであることを、はるかに見通しておられました。そして無我の奉仕によって、自らを捧げるキリストの弟子たちには、永遠の生命が与えられると確証してくださったのであります。これは私たちが、心して考えるに値する思想であります。

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