第4課 告白

 第三課において、悔い改めは神に立ち帰る第一段階であることを学びましたが、本科では第二の段階、告白について考えてみましょう。
 イスラエルの王のひとり、有名なソロモンは、かつて次のようにもうしました。
 「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」(箴言28章13節)
 ここで聖書は、罪を隠すことと罪を言い表すこととを対照して述べています。罪を犯して告白しようとしないことはそれをおおうことであり隠そうとすることであります。そうした人は栄えることがないと神は言われます。しかし、言い表してこれを離れる者は、哀れみを受けるのであります。
 神のあわれみをうける条件は簡単で、しかも正しく合理的です。
 罪に対する真の悲しみを経験する人は、告白へと導かれます。人がそのなしたことを悲しむといっても必要な告白をしたがらないなら、大して役に立ちません。告白の性質は犯した悪に対する悲しみの目安だと言ってもよいでしょう。告白は生来の心にとってたやすいことではありません。悪を認めるにはある程度の勇気が必要であり、許しを請うにはある程度屈辱が必要であります。その難易度の程度は人によってちがいますけれども、それはだれにとってもたやすいことではありません。
 すべての罪は本来、神に対して犯されたものであります。それゆえ、私たちはまず神に罪を告白して許していただかなければならないのですがそれではまだ十分ではありません。私たちは兄弟に対して罪を犯しましたら、これもまた告白しなければなりません。私たちが心から悔い改めてその兄弟のもとに行くならば、彼がクリスチャンであれば許してくれるでしょう。もし彼が許してくれなくとも、私たちはなし得ること、なすべきことをしたのであります。それをした以上は、その問題を神にゆだねるべきであります。
 ある人々は心の秘密を知る権利のない人々に自分の罪を告白するという誤りを犯しています。公に犯された罪は公にすべきであります。人に知られない罪は、神に対してのみ告白すべきであります。問題に公に関係した人、自分の罪に共にあずかった人、自分が罪を犯した人、そうした人にだけ自分の心を開いて告白すればよいのであります。
 私たちは神に告白し神から許しのみ言葉を聞くべきであります。人に告白するなら人からの許しは得られますが、それでは十分ではありません。私たちは神の許しを必要とするのであります。この許しは罪を神に告白すれば得られるのであります。この約束は明白であって、まことにすばらしいものであります。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(ヨハネの手紙第一1章9節)本来らい罪ははってもたやすいことではありません。ますけれども、ども、も、れども、も、れども、れども、ども、ども、も、けれども、も、どはひとによってちがいますけれども、にたちません。す。

1.罪はいつ許されるか

 神は、わたしたちの罪がゆるされるには、なにか面倒なことをしなければならないとは要求しません。長途の巡礼の旅に上がったり、痛々しい苦行をしたりして、天の神に自分がよく思われようと思ったり、罪の償いをしようとしなくてもよいのです。ただ罪を言い表して、これを離れる者はあわれみをうけるのです。
 使徒ヤコブは、「主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(ヤコブの手紙5章16節)と言っています。神のほか罪をゆるすことはできませんから、罪は神に告白しなければなりません。そして、あやまちを互いに言い表しましょう。
 私たちは直接、神のそばに行かなければなりません。このことについて、同じ聖書記者は次のように教えています。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ人への手紙4章16節)
 私たちは、人間の仲保者(神と私たちの間に立ってとりなすもの)を求める必要はありません。神ご自身が私たちの直接の祈りをお聞きになるのであります。
 しかし、私たちがしたことや、言った言葉などが、他の人を傷つけるようなことがあります。たとえば、家族の間で、忍耐しようとしなかったばっかりに、とげとげしい言葉を口にしたりした場合、やはり傷つけた人に対して許しを請わなければなりません。私たちの周囲の人々を悲しませる、いろいろなことがあります。不親切や、不公平、不誠実、あるいは悪意のある様子や言葉や行いなど、こんなことはすべてよくないことでありますから、許しを求めなければなりません。
 もし友人や隣人をつまずかせたなら、自分は悪かったとこれを認めてあやまるのです。そして、これをこころよくゆるすのはその人の義務です。そうしたあとで神のゆるしを求めましょう。というのはあなたがきずつけた兄弟は神のものですから、彼をきずつけたことは、彼の創造主またあがない主に罪を犯したことになるからです。そしてこのことは、まことの仲保者であり、大祭司であるイエスの前に持ち出されます。主は、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」(ヘブライ人への手紙4章15節)たのですから、どんな罪の汚点をもきよめてくださることができます。

2.へりくだった告白の実

 自分の罪を認めて神の前にへりくだらない者は、神に受け入れられる最初の条件さえ果たしていないわけです。再び悔いることのない悔い改めをし、ほんとうにへりくだった砕けた心で罪を告白し、自分の罪悪を心から憎んでいるのでなければ、本当に罪のゆるしを求めたとは言えません。また、罪のゆるしを求めたことがなければ、神からの平和を見いだすことはできません。わたしたちが過去の罪のの神からの平和を見いだすことはできません。わたしたちが過去の罪をつでただしいかたdがけることがとが受けることがや神の恵みを受けることがとがことがとがけることがなれて、もはやかみのめぐみをうけることがd ゆるしを味わっていない、ただ一つの理由は、心を卑しくして真理のみ言葉の条件に従っていないからで、この点について次のようにはっきりと教えられています。
 「再び悔いることのない悔い改め」という言葉の意味が、よくわからないかもしれません。コリントの信徒への手紙第二7章10節にはこれとよく似た句が見られますが、それを読んでみましょう。
 「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」
 パウロがその手紙を送っているコリント教会の状態をよく知りますと、コリントの町に住んでいた信徒たちの上を、彼がどれほど案じていたかということがよくわかります。時には、彼の助言や、勧告が誤解されたのではないかと、深い悲嘆の気持ちが、彼の心を圧したこともありました。
 が、しかし、このコリントの信徒たちの間に、驚くべき変化が起こったという、喜ばしい知らせが伝わりました。多くの人々が、パウロの手紙の中の教訓を受け入れて、彼らの罪を悔い改めました。信徒たちの生活は、もはやキリスト教の恥となるようなものではなく、実際生活が経験そのものであったために、力強い感化を及ぼしたのであります。神の恵みの影響によって人の心に生み出された、この悔い改めは、告白と罪より離れることへと人々を導き、使徒が述べているような実が、コリントの信徒の生活の中にみられるようになったのであります。
 「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。」(コリントの信徒への手紙第二7章11節)
 このようにして、罪の認識がすみやかに告白の精神へと導かれる時、「神の御心に適ったこの悲しみ」は、神との完全な和解、ひいては永遠の命に続く段階へと、人々を導いてゆくのを見ることができるのであります。

3.さらに告白について

 ここで私たちは、もっと告白の性質について学ばなければなりません。次のようにはっきりと教えられています。罪の告白は、それが公のものであっても、個人的のものであっても、真心からのものであって、十分に言い表されなければなりません。罪人に無理に強制して言わせるものではありません。また、告白は、軽率に不注意になされてはなりません。ほんとうに、罪がどんなにいまわしいものであるかを認めていない人に強制するものでもありません。心の奥底からわき出てきた告白は、限りないあわれみを持つ神へと通じます。詩人ダビデは、「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」(詩編34編19節)と言っています。
 前に例証されたコリント教会の経験の中に私たちが見た、よき結果を生み出すためには、次のことを覚えなければなりません。
 真の告白はつねに、はっきり自分の犯した罪そのものを言い表します。神にだけ告白しなければならないものもあります。または、だれか害をこうむった人々に告白しなければならないこともあるでしょう。あるいは公のものであれば、公に告白しなければならないこともあるでしょう。いずれにしても、告白はすべてはっきりとその要点にふれていて、犯した罪そのものを認めなければなりません。
 約四千年前に、神は天から、神の民が苦しめられているのをご覧になりました。当時、彼らはエジプトの国の奴隷として、大きな建築物を建てるために、強制労働をさせられていました。相次ぐエジプトの王は、彼らの苦役を増すばかりであったので、ついにはこれ以上耐えられないというところまできてしまいました。そこで神は、ご自身が働くべき時がきたとお考えになりました。
 「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、・・・へ彼らを導き上る。」」・・になりましたましたしたた。しまいました。た。た。た。せられていました。らんになりました。ます。みることができるのであります。》中に中に中にの連続》中に》中に中にんとのしんとのせいかつのなかにたm
 エジプトの国には、大いなる奇跡や不思議が次々に起こりました。神は自らを、救出者となし、神の民をその圧制者の手から救い出し、女、子供を除いても六十万人という大群衆と共に、家畜の群や、彼らの所有物一切が、安全にエジプトの国外の紅海をわたりきるまで、お休みになることもありませんでした。こうして約束の国に向かって。旅が続けられたのであります。
 社会組織のもっとも小さいものとしての個人より始まって、彼らの組織は、家族、親族、種族に分けられ、最高の位置には、目に見えない指導者、神ご自身がお立ちになりました。実際には、民の前に神を代表するものとして、モーセが立てられましたが、律法や神のご命令、また、教訓などは、人が造ったものではなく、天の神がその源を、お始めになったのであります。
 ですから、これは君主政治ではありませんでした。神は人間の王たちのもろさ、権力に対するあくことのない欲望、富に対する貪欲、様々な問題をさばくにあたっての判断の不確かさなどを、よくご存じでありました。このような理由によって、イスラエルは神権政体として組織され、神は、その唯一の支配者であったのです。
 イスラエルの人々は、サムエルの時代に神から迷い出て、罪の結果に苦しまなければなりませんでした。それは彼らが、神への信仰と、神は知恵と能力をもって国を納められるということを見失い、そのうえ、神はご自身の働きをあくまでも守られるということを信じなくなったからです。彼らは宇宙の大いなる統治者を離れ、周囲の国々と同じ様な統治者を望んだのです。しかし平和を得るためには、次のようなはっきりした告白をしなければなりませんでした。「我々はあらゆる重い罪の上に、更に王を求めるという悪を加えました」(サムエル記上12章19節)と。つまり、悪かったと自覚したその罪が告白されなければならなかったのです。彼らの忘恩の精神が彼らの魂をおさえ、神から切り離していたのでした。
 これは、私たちの個人経験においても同じことであります。神に受け入れられるためには、犯した罪そのものを、はっきり認めなければなりません。「天の神様、どうぞ私の罪をお許しください」とだけ、祈るのでは十分ではありません。もっと明確に、
 「友達の万年筆を盗みましたことをお許しください」と祈ってすぐに万年筆を持ち主に返さなければなりません。
 「不親切な言葉を口にしたことを、どうぞお許しください」と祈って、自分の語る言葉にもっと注意しようと、心に決めなければなりません。
 「どうぞ家の手伝いをしなかったことをお許しください」と祈って、それからは、家事につねづねたずさわっている家族の者が、病気をしたり疲れている時には、喜んで助けようと、すぐに決心しなければなりません。

4.悔い改めとそれに伴う改革

 自分の過失を見いだしたら、それを悔い改めて、直そうと心を決めるべきであります。
 まじめな悔い改めと改革が伴わない告白は、神に受け入れられることはできません。はっきりとした変化が生活にあらわれ、神のきらわれるすべてのものを捨てなければなりません。ほんとうに罪を嘆いた結果はそうなるのです。わたしたちのしなければならないことは、はっきりと示されています。「洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(イザヤ書1章16節、17節)。「すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない」(エゼキエル書33章15節)と。またパウロは、悔い改めについて「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました」(コリントの信徒への手紙第二7章11節)と言いました。
 罪のために道徳的知覚が鈍くなってしまうと、悪を行う者は自分の品性の欠陥を認めもしなければ、自分が犯した罪の恐ろしさを悟ることもありません。罪を示す聖霊の力に従わなければ、人は自分の罪に対して部分的の盲目でいるわけです。ですから、その人の告白はまじめでもなければ熱心でもありません。
自分の罪を認めて悪かったと言うものの、そのたび自分の行為に弁解をつけ加え、ああいう事情さえ起こらなかったら、自分はああもしなかったしこうもしなかったし、なにもしかられることはなかったのだと言います。
 アダムとエバは、禁断の木の実を食べた後、言葉で表現できないほどの恐れを強く感じました。最初には、どうして自分たちの罪の言いわけをして、恐ろしい死の宣告を逃れようかと考えました。神が彼らの罪をただされた時、アダムはその罪をなかば神に、なかば自分の同伴者に負わせて「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答え、女はその責めをへびに負わせて「蛇がだましたので、食べてしまいました」(創世紀3章12節、13節)と言いました。どうしてあなたはへびをお造りになったのですか、どうしてへびをエデンの園にお入れになったのですかという質問がこの罪の言いわけのうちに含まれているのであって、彼らの堕落の責任は神にあると言っているのです。自分自身を義とする精神は、いつわりの父である悪魔からきたもので、アダムのむすこ、娘はみなこの精神を表しました。こうした告白は聖霊に動かされたものではありませんから、神に受け入れられることはできません。真の悔い改めは、自分の罪を自分で負い、なんの虚飾も偽善もなく、罪を認めるのです。哀れな取税人のごとく目を天にむけることさえしないで、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と叫ぶのです。自分の罪を認める者は義とせられます。というのは、イエスは悔い改めた魂のために、自らの血をもって、執り成しをされたからです。
 神のみ言葉には、悔い改めとけんそんの実例があげられていますが、そこには罪の言いわけをしたり、自己を正しとするようなことの少しもない、真心からの告白の精神が見られます。パウロは、自分を弁護することなく、自分の罪をその恐ろしいままに描き、罪をいくらかでも軽くしようなどとは考えませんでした。彼は次のように言っています。「多くの聖なる者たちを牢に入れ、彼らが死刑になるときは、賛成の意思表示をしたのです。また、至るところの会堂で、しばしば彼らを罰してイエスを冒涜するように強制し、彼らに対して激しく怒り狂い、外国の町にまでも迫害の手を伸ばしたのです」
 (使徒言行録26章10節、11節)。また、「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』‥‥わたしは、その罪人の中で最たる者です」(テモテへの手紙第一1章15節)と公に宣言することをためらいませんでした。
 本当に悔い改め、けんそんになった心は神の愛のいくぶんかを悟り、カルバリーの十字架の犠牲を心から感謝してやみません。そして子どもがやさしい父親に告白するように、ほんとうに悔い改めた者は神の前に自分の罪をすべてもっていきます。み言葉にも「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(ヨハネの手紙第一1章9節)としるされているのです。

第4課 瞑想の聖句

 「罪を隠している者は栄えない。告白して罪を捨てる者は憐れみを受ける。」(箴言28章13節)
 一人の少年が、隣の家の窓をこわしてしまいましたが、自分のしたことを、お母さんに告げるのを恐れていました。彼のお父さんは、ちょっとした間違いなどはいつも寛大で、親切に取り扱っていましたが、自分の息子たちをいつもきびしくしつけていました。ですから、長い夏の日を一日中、この少年は家の陰の見えないところでお母さんの目から隠れて、またお父さんが帰ってくるのを心配しながら遊んでいました。
 彼は、隣の家の人がきて、戸口を叩いている音を不吉なものに聞きました。やっぱり、自分のこわした窓のことを、お母さんに告げているのです。少年は、悪いことをしたあとの重苦しい気持ちに身をすくませながら、どんな罰を受けるだろうかと思いまどっていました。午後も半ば頃、お母さんに呼ばれましたが返事をしませんでした。それから数時間たって、お父さんが仕事から帰ってこられ、子供のことを心配しているらしいお母さんの声が、窓越しに聞こえてきました。夕飯時がきて、心配のあまり半病人のようになっていた少年は、どうでも家族に顔を合わせなければならなくなりました。
 彼は長い時間、姿を見せなかったことについて小言を言われ、その上こわれた窓のことを尋ねられました。不安にふるえながら、彼は自分のした不注意をすっかり話しました。
 私たちは、この少年と同じようではないでしょうか。罪のために、幾日の天の父なる神のみ顔から、逃げ隠れてはいないでしょうか。神から離れて、もはや神の恵みを受けることができないと、絶望してはいないでしょうか。
 このようなみじめさは、自分で自分を落とし入れているものであって「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めて」(ヨハネの手紙第一1章9節)くださいます。神と和らぐその時を一時も早くしようではありませんか。

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