キリストへの道

第3課 悔い改め

 恐ろしい犯罪が、新聞紙上をにぎわしており、それがもはや日常茶飯事であるかのように、心を動かされることもなくなりました。驚きや恐怖に対して、私どもは免疫になりかかっているのであります。
 しかしながら、罪は憎むべきものであり、また、人間の中に根強く食い入ってくるものであります。望みがあるのだろうか、このような人間の生来の傾向を、変えることができるのだろうかと人はあやぶみます。

1.罪の起源

 罪の恐るべき特質を例証するためにこの地上に住んでいた最初の男と女、アダムとエバを振り返って考えてみましょう。すでに学んだように、彼らが造られた始めにおいては、神のみかたちにかたどられて完全なものでありました。彼らの幸福をとどめるものは何一つありませんでした。ところが、ある日、神のご警告に反してエバは、彼らの家郷、エデンの園を訪れたサタンの言葉に耳をかたむけてしまいました。サタンは神の権威にそむいて、天のすみ家を追われていましたが、アダムとエバをも罪に落とし入れようとたくらんでいたのであります。エバは夫の側を離れて園の中をさまよい歩いていました。彼女は、神が食べることをお禁じになった木の実のなっている、善悪の知識の木をながめながら誘惑をもてあそんでいました。そうするうちにエバは、サタン自身に顔を合わせてしまったのであります。
 エバの悲しい経験を、事こまかに説明しようというのではありませんが、次のことを覚えなければなりません。彼女は木の実を食べそのうえ夫にもすすめてそれを食べさせました。やがて彼らは、神のように善悪を知るものとなるという悪魔の言葉がなんの祝福もないものであることを知りました。それどころか、いつものように神がアダムとエバのもとを訪れたとき、彼らはかつて味わったことのない気持ちに襲われました。神が近づいてこられるのを喜び迎えるどころか、その身を隠してしまいました。この悲しい日以来、人類は直接に創造主と交わることができなくなったのであります。彼らの罪の結果が実際に現れてくるまでに、どのくらいの期間があったかはわかりませんが、創世記の4章には、アダムとエバの胸を引き裂いたちがいない悲劇が記録されています。
 時がすぎて、アダムとエバに二人の息子が生まれましたが、兄はカインといい、弟はアベルと呼ばれました。いうまでもなく二人の子供は非常に愛されました。両親は救い主に関する神のみ約束を思い起こして、(創世記3章15節参照)この二人の息子の中どちらかの上に、その預言が成就されるのであろうと期待していました。
 カインは成長して農夫となり、アベルは羊飼いとなりました。ある日、兄は、神に従うことについて不満があると弟に語りました。そこで弟は、兄に対してその考えはまちがっていると、やさしくさとしました。その結果、カインの怒りは、とどめることができないまでになったにちがいありません。4章8節を読みますと、
 「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した」としるされています。
 創世記3章にしるされたアダムとエバの罪は、このような悲劇的な結果をもたらしたのであります。彼らの息子は人殺しとなってしまいました。ですから、だれも、罪は無害なものであるとか、これこれの罪は取るに足りないものであるとか言うことはできません。
 罪は神への反逆であります。その支払う値は死であります。使徒パウロが書いたように、「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマの信徒への手紙5章12節)
 また、「罪が支払う報酬は死で」(ローマの信徒への手紙6章23節)あります。
 人間は必ず死に直面しなければならないという、この恐ろしい状態の中に、望みなきままに打ち捨てられていないということは、なんという幸いなことでありましょう。神に立ち返るために取るべきはっきりとした段階が備えられているのであります。

2.神に帰る第一の段階

 人はどのようであったら神の前に正しいと言えるでしょうか。罪人はどうすれば義とされるでしょうか。わたしたちはただキリストによってのみ神と一致し、きよくなることができます。それではどうすればキリストに行くことができるでしょうか。ペンテコステの日に群衆が罪を悟って、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と叫んだように、今日、多くの人々は同じ質問をしています。ペテロは、「悔い改めなさい」(使徒言行録2章38節)と言い、また「自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(使徒言行録3章19節)とも言っています。
 悔い改めとは罪を悲しむことと罪を離れることを含みます。人は罪の恐ろしさを知るまでは罪を捨てるものではありません。心の中で完全に罪から離れなければ生活にほんとうの変化は起らないのです。
 悔い改めの意味のほんとうにわかっていない人が多くいます。罪を犯したことを嘆き、外面的には改める人もいますが、それはその悪事のために苦しみに会わなければならないことを恐れるからです。しかしこれは聖書に教えられた悔い改めではありません。彼らは罪そのものよりは、むしろ罪からくる苦しみを悲しむのです。エサウが家督の権を永久に失ってしまったと気づいた時の悲しみがそうでした。(創世記27章参照)また、バラムは、自分の行く手に剣をぬいた天使が立ちふさがっているのを見て、いのちが奪われるのではないかと恐れ、自分の罪を認めたのです。けれどもそれは、罪に対する純真な悔い改めではなく、目的をまったく変えるものでもなければ悪を嫌悪するものでもありませんでした。(民数記22章参照)イスカリオテのユダは主を裏切ったあとで、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(マタイによる福音書27章4節)と叫びました。
 ユダは、恐るべきさばきと自分の犯した罪のため、自責の念に耐えかねてこういう告白をせずにはいられなかったのですが、それは自分の身にふりかかってくる結果を恐れたためで、きずのない神のみ子を裏切り、イスラエルの聖者を拒んだことを深く心の底から悔いたのではありませんでした。パロも、神の刑罰を受けて苦しんだ時、それ以上の刑罰をのがれるため自分の罪を認めましたが、わざわいがやむと、また、前のように神にそむいたのです。これらの人々はみな罪の結果を嘆いたのであって、罪そのものを悲しんだのではありませんでした。

3.真の悔い改め

 けれども人の心が神の聖霊の感化に服従するなら、良心はよびさまされ、罪人は神の聖なるおきてのいかに深くまた聖なるものであるかを悟り、これこそ天地を治めている神の政治の基礎であることを知るようになるのです。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネによる福音書1章9節)とあるその光に心の奥底を照らされ、また暗きにかくれた事柄を照らし出されて、心も魂も自分は罪あるものであるという思いでいっぱいになります。そして正しく、また人の心を探られる父なる神の前に、罪と汚れのまま立つことを恐れます。こうして神の愛、聖潔の美、純潔の喜びを認め、自分もきよめられて神との交わりに立ち帰りたいと切望するようになるのです。
 罪に対する真の悲しみを感じなかった人々の例として、エサウやバラムやユダの経験について言い及んできましたが、聖書が、真実の悔い改めをした人々についても語ってくれるのは、うれしいことであります。例としてイスラエルの民の王、ダビデの経験について考えてみましょう。
 家族の年少者としてダビデは羊の世話をしていました。荒野に過ごした日々は、彼にさまざまな手業に熟練する十分な機会を与えました。彼は美しい歌声を持ち、また、まれに見る音楽の才能を持って、神をたたえる詩歌をつくり、父の羊たちを見守るかたわら、琴を奏でて歌いました。動物が弱ったり病気になると、それをいやす術も心得ていました。また、彼は恐れを知らない勇敢さにもたけて、素手でくまやししの危害から羊たちを守ったのであります。
 実際、彼は、このように並はずれた青年として成長してゆきました。神が王の後継者をおさがしになったとき、候補者たちはみな利己主義で、軽率な者ばかりでありましたので、神の預言者がダビデのところへつかわされ、油を注いで、彼を神の民の次代の王とお定めになったのであります。
 幾年かが過ぎ去って、王国はダビデの支配の下に繁栄しました。王として、彼の願いは何事でも、望みのままにかなえられるのがつねでした。ある時、直接手を下したわけではありませんでしたが人殺しの罪を犯そうとした時にも、だれもそれをとどめようとする者はありませんでした。ついに王は、殺した男の妻を王宮に招き、自分の妻にしたのであります。
 この大罪は、神に対する犯罪でありました。たとえ王が犯したにしても、人殺しと姦淫は、必ずとがめられなければなりません。神は使いを王宮に使わして、ダビデの大罪を指摘し、罪の結果として、当然報いがもたらされるであろうと宣言しました。(サムエル記下12章参照)
 言うまでもなく、このような恐ろしい行為を大目に見て、許すことはできませんけれども、ダビデが自分の犯した罪の大きさを自覚した時、彼が取った態度から多くを学ぶことができるのであります。それは、懲らしめられることの不愉快さや苦痛による悲しみではなく、また、暴露された悪行を恥じる不幸でもありませんでした。
 ダビデは、直ちに悔い改めたのであります。彼は自分がした行為そのものを悲しみました。彼は、自分の堕落した状態をみとめ、自分に堕落をもたらした行為を忌みきらいました。
 ダビデが罪を犯した後にささげた祈りは、罪に対する悲しみをよくあらわしています。彼はまじめに、心の底から悔い改めたのです。自分の罪を弁解しようとするのでもなければ、恐ろしい刑罰をのがれようという気持から祈ったのでもありません。ダビデは自分の罪の恐ろしさ魂の汚れを認めて、自分の罪を憎んだのです。彼が祈ったのは、罪のゆるしばかりでなく心がきよめられることでした。また聖潔の喜びを切望し、もう一度神とやわらぎ神との交わりにはいりたいと願ったのです。彼の心から次のような言葉があふれ出ました。
「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(詩編32編1節、2節)
 「神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
  深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。‥‥
  あなたに背いたことをわたしは知っています。
  わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。‥‥
  ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
  わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。‥‥
  神よ、わたしの内に清い心を創造し
  新しく確かな霊を授けてください。
  御前からわたしを退けず
  あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
  御救いの喜びを再びわたしに味わわせ
  自由の霊によって支えてください。‥‥
  神よ、わたしの救いの神よ
  流血の災いからわたしを救い出してください。
  恵みの御業をこの舌は喜び歌います」
                      (詩篇51:3−16)

4.悔い改めの根源

このような悔い改めは、自分の力ではとてもできるものではありません。これは天に上がられ、人類に聖霊の賜物を与えられるキリストによるほかないのです。
 ところがここで考え違いをして、せっかく、キリストが与えようとしている助けを受けない人が多いのです。つまりそれらの人は、まず悔い改めなければキリストに近づけない、悔い改めは罪のゆるしをうける準備であると思っています。もちろん砕かれ、悔い改めた心だけが救い主の必要を感じるのですから、悔い改めが罪のゆるしに先だつのは当然です。それでは罪人は悔い改めるまではイエスのもとに行けないのでしょうか。悔い改めが罪人と救い主との間の障害物となってよいのでしょうか。
 聖書は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章26節)というキリストの招待は、罪を悔い改めなければ受けることができないとは教えていません。罪人が本当に悔い改めるようになるのは、キリストから出る力によるのです。ペテロはこの点をはっきり述べて「神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました」(使徒言行録5章31節)とイスラエル人に言っています。わたしたちはキリストなくしてはゆるしが与えられないのと同じように、キリストの霊が良心をよびさまさなければ悔い改めることができないのです。
 キリストはすべての正しい動機の根源であって、彼だけが人の心のうちに罪を憎む心を植えつけることができるのです。真理や純潔をしたい、自分の罪深さを認めることなどはみな、キリストの霊がわたしたちの心に働いている証拠です。
 イエスは「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネによる福音書2章32節)と言われました。キリストは世の罪のために死なれた救い主として罪人の前に示されなければなりません。カルバリーの十字架にかけられた神の小羊をながめる時はじめて、説明することのできない贖罪の神秘がわたしたちの心にも理解され、神の恵みの深いことがわたしたちを悔い改めへと導くのです。キリストは罪人のために死なれて、はかり知れない大きな愛をあらわされました。罪人がこの愛を知るとき、深い感銘を受けて心はやわらげられ、悔い改めへと導かれるのです。
 もちろん、人は自分がキリストに導かれていることを意識する前に、罪深い行為を恥じて悪い習慣をやめることがあります。けれども、人が正しいことをしたいと切望して改めようと努力する時はいつでも、キリストの力が働いて彼らを引きつけているのです。自分たちは意識してはいないけれども、その力が心のうちに働いて良心をよびさまし、行為が改められるのです。やがてキリストに導かれて十字架を見せられ、自分たちの罪が彼を刺し通したことを知るときおきてのなんたるかが良心にはっきりと焼きつけられ、悪にみちた生活や心の底深くに根ざした罪が示されます。彼らはキリストの義とはなんであるかを幾分たりとも了解するようになり、「ああ、なんと罪は恐ろしいものであろう。罪のとりこになった者を救うためにはこのような大きな犠牲が払われなければならなかったのか、わたしたちが滅びず、永遠の生命を受けるためにはこのような大きな愛、恐ろしい苦しみ、また、はずかしめが必要であったのか」と叫ばずにはいられなくなります。
 罪人はこの愛を拒み、キリストに引かれることを拒むこともできますが、逆らいさえしなければ自然にイエスに引きよせられるのです。そして救いの計画を知るようになると、自分の罪が神の愛するみ子をこのように苦しめたことを悔いて、十字架のもとにひざまずくのです。
 この救いの計画が、どんなにして私たちに及ぼされるのかと、いぶかしくお思いになるでしょうか。とりわけ、天の神が私たちの心に近づき、人の罪を指摘して、真の悔い改めにまで至らせるためにどのようにして助けと導きを、お与えになるのかとあやぶまれることでしょう。この問題についても、もっと説明を加えましょう。
 自然界にも働いているこの同じ神のみ心は、人の心に呼びかけ、人が持ち合わせていない何ものかに対する表現しがたい渇望を起こさせるのです。この世のものではどうしても彼らの渇望を満たすことはできません。神のみたまは心に真の平安を与える唯一のものであるキリストの恵みと、きよめの喜びを求めるように訴えています。わたしたちの救い主は、絶えず見える見えないにかかわらず、さまざまの力を用いて、満足のない罪の快楽を離れキリストによって与えられる限りない祝福を求めるよう、わたしたちの心に働いています。この世のかわききった泉のほとりで飲もうとしても飲むことのできない人々に、み言葉は、「渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい」(ヨハネの黙示録22章17節)と呼びかけています。
 あなた方のうちで、この世の与えるものよりもさらに良いものを心の中で求めている方は、その心の願いが魂へ呼びかける神のみ声であることに気づかれるでしょう。どうか、そのときは神が悔い改めを与えられるように、そして限りない愛にあふれまったく純潔そのものの姿のキリストを示されたように祈っていただきたいのです。救い主は、神のおきての原則、すなわち神と人とを愛するということを、その生涯において完全に実行されたのです。また慈悲と無我の愛が救い主のいのちでした。ですからわたしたちが救い主をながめ、救い主の光に照らされるとき、はじめて自らの心の罪深さが見えてくるのです。

5.聖書の実例

 わたしたちも、夜、イエスを訪れたニコデモのように、自分の生活は正しくて道徳的にもまちがっていないとうぬぼれ、ふつうの罪人のように、神の前にへりくだる必要がないと考えているかも知れませんが、一度キリストの光が心の中にさしこむとき、自分たちがどんなに汚れているかがわかります。またなにをするにも自分の利益ばかり考え、神に逆らい、日常のあらゆる行動が汚れていたことを悟ります。そしてわたしたちの義は汚れた衣のようであって、キリストの血だけが罪の汚れから清め、彼のみ姿にかたどって、わたしたちの心を新たにすることを知るのです。
 神の栄光のただ一筋でも、あるいはキリストの純潔のただ一ひらめきでも、人の心に照りこむとき、心の汚れの一つ一つが痛々しいまでに、はっきりと見せられ、人の性質の欠点、欠陥があますところなく示されます。それは汚れた欲望、不誠実、汚れたくちびるなどをはっきりと見せるのです。罪人の目は、神の律法を無視した不誠実な行ないが、はっきりと見せられ、人の心を探る神のみたまに打たれ苦しめられます。そして、キリストの純潔無垢のご人格をながめて、自分を忌みきらうようになります。
 旧約聖書の中に、その名をかかげる黙示の書をしるした、ユダヤの預言者ダニエルは、天の神から大いに愛された人でありました。彼の生活の聖潔は、バビロンの高官として仕えていた時も、また、引き続いて、ペルシア帝国にあった時も、彼を取り囲んでいた悪に対して、耐えざる譴責となっていました。
 かつて預言者ダニエルは、自分に天使がつかわされた時、その天使の栄光をながめて、自らの弱さと不完全さを感じ、気を失ってしまいました。その驚くべき光景にうたれ、「力が抜けていき、姿は変わり果てて打ちのめされ、気力を失ってしまった」(ダニエル書10章8節)と言いました。このように、一度、感動をうけた心は、我欲を憎み、利己心を忌みきらい、キリストの義によって神の律法、またイエスの品性に調和した心の純潔を求めます。
 パウロは「律法の義については(外部に現われた行為)非のうちどころのない者でした」(ピリピの信徒への手紙3章6節)と言いましたが、一度おきての霊的精神が理解されたとき、自分は罪人であると悟りました。人がおきてを外的生活にあてはめおきてを字義的に解釈すれば、彼は罪を犯していなかったと言えます。しかし、その聖なる条文の深い精神を見つめ、神が見られたように自らを見つめたとき、心へりくだってみ前に伏し、自らの罪を告白しました。彼は「わたしは、かつては律法とかかわりなく生きていました。しかし、掟が登場したとき、罪が生き返って、わたしは死にました」(ローマの信徒への手紙7章9節、10節)と言いました。一度おきての霊的精神がわかったとき、罪の醜さがそのまま、ありありと見せられ、自尊心は失せ去ったのです。
 神はどの罪もみな同じであるとは思いません。人間と同じようにやはり大小、軽重の区別をします。けれども、人の目にどんなに小さく見える悪事でも、神の前には決して小さい罪というものはありません。人の判断はかたよって不完全なものですが、神はすべてをそのあるがままに量られます。たとえば飲酒家は軽蔑されて、とても天国には行かれないと言われてますがその反面、高慢、我欲、貪欲などは責められず、見過ごしにされがちです。しかし神は、こうした罪をとくにきらわれるのです。というのは、これは神のあわれみ深い品性に反し、堕落しない宇宙に満ちている無我の愛の精神に反するからです。なにか大きい罪を犯したものは自ら恥じ入り、卑しさを感じ、キリストの恵みの必要を感じますが、高慢な者はなんの必要も感じないため、キリストに対して心を閉じてしまい、キリストがきて下さって、与えようとなさる無限の祝福を受けることができません。
 「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(ルカによる福音書18章13章)と祈ったあわれな取税人は、自らを大悪人であると認めました。また他の人々も同じように、彼をそう判断していました。しかし彼は、自分の必要を感じ、罪の重荷と恥を抱えたまま神のみ前に出て、あわれみを請いました。彼の心は神のみたまの恵みある働きにより、罪の力から解放されるため開かれていました。一方高ぶって自分を義としていたパリサイ人の祈りは、聖霊の働きに対して心を閉じていたことがわかります。彼は神から遠く離れていたので、神の完全な神聖さと比べてみて、自分がどれほど汚れているかを感じませんでした。そして彼は必要を感じなかったので、何も受けることができませんでした。

6.必要な助言

 もし、自らの罪深さに気づいたなら、自分でよくしようなどと思って待ってはなりません。自分はキリストの許に行くにはふさわしくない、と思っている人がなんと多いことでしょう。自分の力でよくなれるとでも思っているのでしょうか。「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも、正しい者となりえよう」(エレミヤ書13章23節)とあります。わたしたちを助けてくださるのは神だけです。もっと強い確信、もっといい機会、あるいは、もっときよめられた性質を持つまでなどと待ってはなりません。わたしたちは自分の力ではなにもできないのですから、ありのままでキリストに行くほかはないのです。
 しかし、神は愛と恵みに富んでいるからといって、その恵みを拒む者まで救ってくださると思い、自らを欺いてはなりません。罪がいかに恐るべきものであるかは、十字架の光に照らされてはじめてわかるのです。神はあわれみ深いお方なので、罪人を捨てはしないと説く者がいれば、そういう人はカリバリーの十字架を見なければなりません。というのは、人の救われる方法、つまり人類が汚れた罪の力からのがれ、聖なる者との交わりに立ち帰り、ふたたび霊的生活にあずかる者となるには、キリスト自ら不従順の罪を負い、罪人のかわりに苦しまれるよりほかに方法がありませんでした。神のみ子の愛と苦難と死はみな罪がいかに恐ろしいものであるかをあかしし、キリストに心を完全に任せるよりほかには、その罪の力からのがれることも、向上した生活への希望もないことを明らかにしています。
 悔い改めない人は、クリスチャンと自称する人々のことを口実にして「わたしもあの人たちと同じぐらい善良だと思う。あの人々が自分よりもまじめで、慎重に行動しているとは思われない。わたしと同じように快楽を愛しているし、わがままもする」と言います。こうして彼らは他人の欠点を拾い上げて、自分の義務を行わなくてもいいと言いわけしているのです。しかし他人の罪や欠点は言いわけにはなりません。なぜなら、主はわたしたちにまちがいの多い人間を模範としてお与えになったのではないからです。わたしたちの模範として与えられたのは、きずのない神のみ子です。クリスチャンのまちがいをあれこれ言う人こそ、より良い生活、より良い模範を示さなければなりません。クリスチャンについて、こうなければならないとそれほど高尚な意見をもっているとするなら、彼らの罪はかえってそれだけ大きくはないでしょうか。なぜなら、彼らは正しいと知りながら実行しようとしないからです。
 延ばさないように気をつけましょう。罪を捨てることを延ばし、イエスによって心をきよめていただくことを遅らせてはなりません。この点で幾千という人が誤り、永久に滅びてしまいました。わたしは今なにも人生の短いことや、はかないことを言おうとはしませんが、ここに人の気づかない恐ろしい危険があります。それは、神のみたまのささやきに従うことを延ばし、罪の生活をつづけていくという恐ろしい危険です。これは実に恐ろしいことです。たとえどんなに小さくても、罪にふけることは、永遠に失われる危険をおかしているのです。
 わたしたちが打ち勝たないものは、わたしたちを打ち破り、ついにはわたしたちを滅びにいたらせてしまいます。
 アダムとエバは、禁断の木の実を食べるということは、ほんの小さいことであるから、神が宣告されたような恐ろしい結果とはならないと、自ら思い込んでしまいました。しかしこの小さいことが神の変ることのないきよいおきてを犯し、人を神から引き離し、この世に死と、言い尽くされぬ炎をもたらしたのです。それ以来いつの時代にも、嘆き、悲しみの声が地から上がり、すべての被造物が人間の不従順の結果うめき苦しんできました。天そのものさえ、人間の神への反逆の結果を感じました。カリバリーの十字架は、神のおきてを犯した罪をあがなうため払わなければならなかった驚くべき犠牲の記念碑として立っています。ですから、罪は小さいものであると考えてはならないのです。
 どんな罪の行為でも、また、キリストの恵みをおろそかにし拒んだりするどんな行為でも、その一つ一つが自分にかえってきます。そして心はかたくなになり、意志の力は衰え、理解力はまひし、ますます神のみたまの優しいささやきに従わないようになるばかりでなく、従うことができないようになってきます。
 けれども、世の中には、悪い行為を変えようと思えばいつでもできる。また、あわれみの招待を軽視しながら、なお、聖霊の声に耳を傾けることはいつでもできると思って、良心の苛責をしずめようとしている人々がたくさんいます。彼らは、恵みのみたまを侮り悪魔に味方していても、いよいよ動くに動かれない窮地に陥った時には方向を変えることができると思っています。しかし、それはそう簡単にできるものではありません。一生涯の経験や教育はすっかり人の性格を形づくってしまっているので、その時になって、イエスのみかたちを受けたいと望むものはほとんどないのです。
 たとえそれがどんな小さい悪癖、どんな欲望であっても、いつまでも心の中でもてあそんでいれば、終りには福音のすべての力を無にしてしまいます。魂は罪にふけるごとに、神をきらう心が強くなります。頑固に神を信じようとせず、真理に対してまったく冷淡であるという人は、ただ自分のまいた種を収穫しているにすぎません。いにしえの賢人は、罪人は「自分の悪の罠にかか」(箴言5章22節)ると言いましたが、悪をもてあそぶことが恐ろしいことをこれほど適切に忠告しているものはありません。
 キリストは、いつでもわたしたちを罪から解放しようとしています。けれどもわたしたちの意志を強制することは決してしません。もしわたしたちがどこまでも罪を犯しつづける結果、意志はまったく悪に傾き、罪から解放されることを望まずキリストの恵みを受け入れようとしないなら、いったいキリストはなにができるでしょう。わたしたちは彼の愛をどうしても受けようとしないため、自らを滅びにおとしいれるのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(コリントの信徒への手紙第二6章2節)。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、‥‥心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ人への手紙3章7節、8節)
 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(サムエル記上16章7節)。人の心には、喜びと悲しみがあるかと思えば、横道にそれようとするわがままな心があって、さまざまの不純と虚偽が宿っています。神は、その動機、意図、また目的そのものを見られるのです。汚れたそのままの心で神のみもとに行きましょう。詩人がうたったように、すべてを見られる神にすっかり心を開け放して「神よ、わたしを究め、わたしの心を知ってください。わたしを試し、悩みを知ってください。御覧ください、わたしの内に迷いの道があるかどうかを。どうか、わたしをとこしえの道に導いてください」(詩編139編23節、24節)と呼ばわりましょう。
 世には宗教を頭だけで受け入れ、敬けんの形だけを受け入れて、心のきよめられていない人が多くいます。わたしたちは「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(詩編51編12節)と祈りましょう。自分の魂の状態を吟味し、身に危険が迫っていると思って、怠けることなく、また熱心でなければなりません。これは神とあなたの魂との間で解決されなければならない問題、永遠に決定されなければならない問題です。ただ、そうあればよいと望んでいるだけで、それ以上なにもしないなら滅びるよりほかはありません。
 祈りと共に神のみ言葉を研究してみるなら、み言葉は神のおきてとキリストの生涯を通して、きよめという大原則を教えていることを知り、また、このきよめがなくては「主を見ることはでき」(ヘブライ人への手紙12章14節)ないということがわかってきます。またそれは、罪と救いの道を明らかに示します。わたしたちは、これを神が魂に語られるみ声として、耳を傾けなければなりません。
 罪の恐ろしさを知り、自分自身をありのまま見つめるとき絶望してはなりません。キリストは罪人を救うためにこられました。わたしたちは、なにも自分で神とやわらぐのではありません----ああ、なんと驚くべき愛でしょう----神はキリストによって、「世を御自分と和解させ」(コリントの信徒への手紙第二5章19節)られたのです。神は優しい愛をもって、道に迷った神の子らの心を求めています。いかなる世の中の親であっても、子どもたちの失敗やあやまちを神が救おうとしている人々を忍んでいるほどに忍ぶことは、とうていできません。だれも、これほどのやさしさをもって、罪を犯した者に訴えることはできません。また、これほどやさしく迷える者を呼び返そうとした者はいません。神のみ約束もご警告もみな、言葉では表わすことのできない愛の息吹きにほかならないのです。
 悪魔がきて、あなたは恐ろしい罪人であると言うなら、あがない主を仰ぎその功績を語りなさい。キリストの光をながめることは大きな助けになります。自分の罪を認めるとともに敵には、「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」(テモテへの手紙第一1章15節)と告げなければなりません。そしてその測り知れない愛によって救われることを語りなさい。イエスはシモンに、ふたりの借財ある者について質問しました。ひとりの負債は少額でしたが、もうひとりは多額の負債をもっていました。しかし主人はふたりともゆるしました。さて、キリストはシモンに、どちらが主人を深く愛したでしょうかと尋ねられました。シモンはそれに答えて「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」(ルカによる福音書7章43節)と言いました。わたしたちは大いなる罪人でしたが、わたしたちがゆるされるためにキリストは死なれたので、彼の犠牲の功績はわたしたちのかわりに神の前にささげられるに十分でした。最も多くゆるされた者がキリストを一番愛するようになり、そのみくらの最も近くに立って、その大きな愛と限りない犠牲をほめたたえるのです。神の愛がほんとうによくわかった時に、罪の深さがわかるのです。わたしたちを救うために下げられている鎖の長さを知り、キリストが身代りになって払われた限りない犠牲をいくぶんでも悟るとき、心は言い知れない感謝にあふれ、やわらぎ、悔い改めずにはいられないのです。

第3課 瞑想の聖句

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。(使徒言行録2章38節)
 一群の少年たちが、果樹園のりんごの木によじ登っていました。まだ熟してはいませんでしたが、小さな青いりんごが、いかにもおいしそうに見えましたので、まもなく少年たちは取って食べ始めました。
 次にどんなことが起こったかは、たやすく想像がつきます。しばらくして、子供たちは腹痛を訴え始めました。固い、まだ青いりんごを食べると、腹痛が起こることはだれもがよく知っています。また、未熟なくだものを口に入れたあとで、こんなばかげたことをしなければよかったと、悔やむ気持ちもよくわかります。「ごめんなさい。青いりんごを食べたのです。もう決してこんなことはしません」という少年たちの声が聞こえてくるようです。
 このような悔い改めは、大ていの場合、苦痛の程度に比例しています。お腹が痛んでいる間は、そんなことをしたのを後悔して、もう決して青いりんごを食べるようなことはしないと、たやすく決心します。けれども、いったん苦痛がやむと、あったことはみな忘れてしまって、また木によじ登って未熟な果物を食べている少年たちを見いだします。
 罪に対する悔い改めは、人が、人生の「青いりんご」を食べたあとにくる結果を悲しむというより、もっとほかの何かを含んでいます。もし私たちの行為の不愉快な結果だけを悔やむとするならば、次の機会に出会って、また同じことを繰り返すのは、ありがちなことであります。
 こんなではなしに、私たちは、罪、それがどんな罪であっても、すべての罪は憎むべきものであり、その罪が、神の尊い御子を、死にまで至らせたということを十分認識しなければなりません。外面ばかりでなく、心の中より罪を捨てなければなりません。その時、そしてそうすることによってのみ、私たちは、真の悔い改めに導かれるのであります。

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