キリストへの道

第2課 キリストの必要

1.完全な神の創造

 人類の起源に関する、美しくも単純な記録は、創世記一章にしるされています。「はじめに神」ということばで始まっているこの章は、すべての物には始めがあり、神はすべてのものの以前に、すでに存在していたもうたという重要な事実を、この言葉を通して教えています。聖書の最初ページを読んでゆきますと、このすべてのものの以前にいましたもうた御方は、個性,意志、意図をお持ちになる全能の御方であると、紹介されています。このゆえにこそ、何ものにも依存することなく、御自らの意志を持って、「天地を創造された」のであります。
 神のご命令の下に、「地は混沌」としていたこの地球が、だんだんとすばらしい状態に、変えられてゆく様を創造することは、まことに痛快なことであります。日や、月や、星が現れて地上が照らされ、草木が生えいで、ついには陸、海、空が生物のすみかとして完成いたしました。今日も、やはり人間は、自然の驚異に目をみはり、自然の神秘にふれるたびに、より深い研究課題を見いだしているのであります。
 このような研究は、それ自体が畏敬に値するものでありますが、六日目の人類の創造という大きな分野が、まだ残されているのでありまして、これこそ神の創造の働きの中で、特筆されるべきものであります。
 神とみ子キリストとの間になされた協議によって「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」という決議がなされました。(創世記1章26節)神は、ご自身で創造の働きにおあたりになるはずでありました。
 この人類創造については、驚くべき簡潔さをもって記録されています。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1章27節))ヘブライの聖書の中に、こうした神の意図の成就が、次のような詩の形式によって表現されています。?
  神は御自分にかたどって人を創造された。
  神にかたどって創造された。男と女に創造された?
 初め、人はすぐれた能力と調和のとれた精神を与えられていました。彼はまた人として完全で神と調和し、思想も純潔で、きよい目的をもっていました。
 詩人ダビデは、人が造られた時の状態を描いて「栄光と、威光を冠としていただかせ」、と言っています。(詩編8編6節)しかしながら、詩編を続いて読んでゆきますと、次の聖句を見いだします。「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51編7節)造られた当時の人間の状態と、後の人の状態を比べる時に、驚くほどの対照を見いだして人はあやしみますどんな変化がこの間に起こったのでしょうか。これが説明されてゆくと、大変なる悲劇──人類の罪の悲劇が、明るみに出されてくるのであります。
 続いて創世記を読んでゆきますと、2章はうるわしい栄光の家郷、神が人類のためにお供えになった、エデンの園が描写されています。
 「主なる神は、東の方のエデンに園を設け、自ら形づくった人をそこに置かれた。主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた」(創世記2章8節、9節)
 エデンには、園をうるおす川が流れ、いきいきとした生気が、人びとに祝福をもたらしていました。
 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」(創世記2章15節)

2.罪の進入

 神は、その御知恵と人間に対する深い御愛のうちに、人間の神に対する愛と服従を、ためそうとなさいました。
 「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう』。」(創世記2章16節、17節)
 悪魔は楽園にはいり込み、蛇を使ってエバに語りかけました。「「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」(創世記3章1節)悪魔はこの言葉によって、神の愛と権威に対し、意義をはさんだのであります。
 サタンは、神を信用に値しないものとし、神の人間に対する意図は、多分に自分本位であるとしていました。彼は偏見にとらわれていたのであります。悪魔はエバに、彼女と夫が、たとい禁じられている木の実を食べたとしても死ぬことはないと保証して、まっこうから神のご禁令に反対したのであります。そればかりか、その木の実を食べるなら、知識の目が開かれて、今まで人類に隠されていた真理を悟ることができるようになると宣言しました。
 エバは、サタンの巧妙は誘惑に負けてしまいました。愛する妻から離れたくなかったアダムも、エバの例にならいました。彼らはついに、善悪を知る木の実を食べたのであります。
 こうして、アダム、エバは神の愛を疑いサタンの言葉を信じて不服従の道を選んだのです。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマの信徒への手紙5章12節)

3.人間は自分の力で何もすることができない

 けれども、神に背いたためその能力は悪に向けられ、愛は利己心とかわってしまいました。罪のため人の性質はすっかり弱められて、自分の力では悪の勢力と戦うことができなくなりました。こうして悪魔のとりことなってしまったのですから、もし、神が特別に救ってくださらなかったなら、いつまでもそのままの状態でいたことでしょう。悪魔は、人類を創造された神のご計画を妨害し、この世を悲しみと破壊で満たそうと思いました。そして、こうした災いはみな神が人類を創造された結果であると言おうとしたのです。
 人は、罪を犯す前には、「知恵と知識の宝はすべて、‥‥隠れて」(コロサイの信徒への手紙2章3節)いるキリストとの交わりを楽しむことができました。けれども罪を犯して後は、もはやきよいことを楽しめなくなり、神のみ前から隠れようとしました。今日でも、新生を経験しない人の状態はその通りで、神と一致していないため神と交わることを喜ばないのです。罪人は神のみ前では楽しむことはできません。彼らは、きよい者たちとの交わりを避けようとします。たとえ天国にはいることが許されても、すこしも喜びとはならないでしょう。天国では無我の愛の精神がみちていて、限りない神の愛をすべての心が反映しているのですが、そうした精神も、罪人の心にはなんの感動も与えないことでしょう。そして、その思想も興味も動機も天国に住む罪のない者たちの気持とはまったくことなっていることでしょう。彼らは天国の美しい音楽と調和しないものとなるのです。天国はあたかも苦しいところのように思われ、光であり喜びの中心である神のみ顔を避けようとすることでしょう。悪人は天国に入れないというのはなにも神が独断的に定められたのではありません。それは、彼ら自らがそうした交わりに不適当なものとなってしまったからです。神の栄光は、罪人にとってはやきつくす火です。罪人は、自分たちをあがなうために死なれたキリストのみ顔を避けて滅ぼされたいと望むようになるのです。
 預言者エレミヤは、罪人の状態を次のように描いています。「クシュ人は皮膚を、豹はまだらの皮を変ええようか。それなら、悪に馴らされたお前たちも正しい者となりえよう。」(エレミヤ書13章23節)
 この聖句は、私たちの自身の力によっては、何もすることはできないということを示しています。ちょうど黒人がその皮膚の色を変えることができず、また動物が、その毛の模様を変えることもできないのと同じように、人がどんなに自分の必要を感じていたとしても自分自身の力では、何もすることができないのであります。
 わたしたちは、自分の力で一度沈んだ罪の淵から逃れることはできません。またわたしたち悪い心を変えることもできないのです。「汚れたものから清いものを/引き出すことができましょうか。だれひとりできないのです」(ヨブ記14章4節)。「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」(ローマの信徒への手紙8章7節)とあります。教育、教養、意志の力、人間の努力などいずれも、それぞれ大切な役割をもってはいますが、心を新たにする能力はまったくないのです。もちろん、わたしたちの行いはただ外面的の正しさは与えるかも知れませんが、心を変えることもできなければ、生活の源泉をきよめることもできないのです。天から新しい生命がその人の内部に働かなければ、人は罪からきよめられることはできません。この力というのはキリストです。キリストの恵みだけが人の力のない魂を生きかえらせて、これを神ときよきに導くことができるのです。救い主も「人は、新たに生まれなければ」と言われました。すなわち、新しい生涯を送るための新しい心、新しい希望、目的、動機などが与えられなければ、「神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3章3節)のです。人は生まれながらに持っている良いところをのばせばよいという考えは恐ろしい誤りです。聖書には、「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(コリントの信徒への手紙第一2章14節)「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(ヨハネによる福音書3章7節)とあります。また、キリストについては「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネによる福音書1章4節)。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)としるされています。
 人はただ、神の愛といつくしみ、また、父親のようなやさしさを悟っただけでは十分ではありません。また神のおきてにあらわれた知恵と正義とをみとめ、おきてがいつまでも変わらない愛の原則の上にたてられていることを認めただけでも十分とはいえません。使徒パウロはこのことをよく知って、「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります」(ローマの信徒への手紙7章16節)「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」(同書12節)と叫んだのですが、なおつけ加えて「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(同書14節))と言ったのは、言葉で表現できないほどの苦痛と失望があったからです。彼は純潔と正義とを求めてやみませんでしたが、彼自身には、そこまで達する力はありませんでした。そしてついに、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(同書24節)と叫んだのです。こうした叫びは、どこにおいても、どんな時代にも、罪の重荷に悩む人々の心から等しくほとばしり出たものです。こうした人への答えは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネによる福音書1書29節)というみ言葉よりほかにはありません。

4.聖書の実例

神の聖霊は、罪の重荷から逃れたいと望んでいる魂にいくつも例をあげて、この真理をわかりやすく説明しています。
 数千年も前、遠く離れたパレスチナの地方に住んでいたひとりの人の経験は、罪人に対する神の助けについて、私たちに教えています。名はヤコブと言い、彼の物語は、創世記28章10節〜17節に詳しく述べられていますが、その背景となる場面は前章に記されています。
 彼は、兄が持っていた長子の特権を奪い、その上、父を偽ったことによって、彼を殺そうと脅かした兄の怒りから、のがれなければなりませんでした。
 ヤコブはエサウを欺いて罪を犯し、父の家をのがれたとき、いい知れない罪の重荷で押さえつけられるように感じました。今までの楽しかった生活をあとにして、ひとり寂しく家を追われていく彼に、なによりもまず気になったのは犯した罪のために神から切り離され、天からまったく見捨てられてしまったのではないかということでした。こうした悲しい心をいだいて、着のみ着のまま土の上に横たわる彼の周囲には、寂しく丘が起伏し空には星が明るくまたたいていました。彼が夢路にはいったかと思うと、不思議な光がまぼろしのうちに目の前に輝き出ました。それは、今自分が眠っている原野から大きな影のようなはしごが天の門まで通じているかのように見え、その上を神の使いがのぼったりおりたりしていました。そして輝く栄光のかなたから慰めと希望にみちた神のみ声が聞こえてきて、彼の心の求めと望みを満たすのは救い主であることを知らされたのです。彼は罪人である自分がもう一度神と交わることができる道を示されて、喜びと感謝に満たされました。ヤコブの夢に現れた不思議なはしごは、神と人類の間のただ一人の仲保者イエスを代表したものです。
 キリストがナタナエルと語られた時、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(ヨハネによる福音書1章51節)と言われたのは、これと同じことをさしていたのです。人間は神に背いて自ら神に遠ざかり、ついに地は天から切り離されてしまいました。このだれも渡ることができない深い淵を再びつないで地と天と結びつけてくださったのはキリストです。キリストは自らの功績によって罪の結果である深い淵に橋をかけ、奉仕の天使が人との交わりを続けることができるようにしてくださいました。キリストは、罪に沈んだ弱い無力な人間を限りない力の源につないでくださるのです。

5.神のみが罪人を救い得たもう

人間がいかに進歩を夢み、人類向上のためいかに努力を惜しまないとしても、堕落した人類にとってただ一つの希望である助けの源泉にたよらなければ何の役にもたちません。「良い贈り物、完全な賜物はみな」(ヤコブの手紙1章17節)神から与えられます。神を離れては本当にすぐれた品性をもつことはできません。そして神へのただ一つの道はキリストです。キリストは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネによる福音書14章6節)と言われました。
 第1課において、私たちは神の愛について研究しました。この神の愛の特権を例証するために、イザヤ書49章15節を引用しましたが、16節も読んでみましょう。
 「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。」
 人は、大切な事柄を覚えておくために、いろいろな方法を用います。覚え書きに書き取ったり、重要な通知は忘れないように、手近なところにしまっておきます。神もまた、私たちを覚えたもうと仰せられます。手のひらに私たちの名を彫り込み、私たちの城壁(これは言うまでもなく、私たちの家の象徴である)は、つねに神のみ前にあります。言いかえれば、神は、つねに私たちを、そのみ心にとめておいでになるのであります。
 神は、死よりも強い愛をもって、地上の子らに思いをかけています。神がひとり子を与えられたということは、全天をそそぎだして、一つの賜物としてあえられたということなのです。救い主の生涯、死、その執り成し、天使の奉仕、聖霊の懇願これらいっさいのものを通じて働いている父なる神と、天の住民たちのたえざる関心などが、ことごとく人の救いのために力をそえているのです。
 わたしたちのために払われた驚くほどの犠牲をしずかに瞑想してみましょう。一度失われたものを呼びかえし、父なる神の家に連れもどすためには、天はあらゆる努力を惜しまないことを感謝いたしましょう。これにまさる動機や力ある方法は、ほかではどこにも見いだすことはできません。正しい行為に対する大いなる報酬、天上の喜び、天の使との交わり、神のみ子の愛との交わり、また永遠にわたってわたしたちのあらゆる能力がのばされ、高められていくことなどは、わたしたちの創造主、あがない主に心から愛の奉仕をさせずにはおかない刺激であり、奨励ではないでしょうか。
 ところが一方、罪に対する神の審判、必然的な報い、品性の堕落、そして最後の滅亡などがみ言葉にしるされているのは、わたしたちに悪魔の働きを警告するためです。
 わたしたちは神のあわれみを無視してもいいでしょうか。神は一体これ以上なにをなさることがあるでしょうか。驚くばかりの愛をもってわたしたちを愛された神との正しい関係に立ち帰りましょう。そして与えられた方法を最もよく用いて神のかたちに変えられ、もう一度天使と交わることを得て、父なる神とみ子とに一致し、その交わりに入ることができるようにしたいものです。

 「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」(フィリピの信徒への手紙4章19節)

第2課 瞑想の聖句

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書一五章五節)
 ぶどうは植えられるだけでは十分ではありません。その枝が巻きつくために支柱が必要なので、大抵ぶどう棚を造ります。こうして、生長するに従って、不必要なぶどうの枝は収穫を減らしますので、絶え間なく手が加えられてゆきます。──枝は、支柱に支えられて、上へ伸びひろがって生長し、余分な枝は切り取られて棄てられます。そして最後に、豊かなぶどうの房をつける立派はぶどうの枝だけが残されるのであります。
 これはすべて、クリスチャン経験に当てはめられます。クリスチャンは、自分以外の力によって支えられ、養われているぶどうの枝にたとえることができます。この意味において、ぶどう園の支柱や棚は、キリストが個人個人にお与えになる、天来の助けをあらわすのであります。
 人間は、決して神から離れることができないということを知らなければなりません。神から離れれば、ちょうどそれと同じだけ、イエスの生命を与える力は、もはや彼にとどかなくなります。切り取られた枝のように、彼の霊的生命はしおれて、ついには枯れ死んでしまうのであります。
 キリストから離れて、人間は何一つできないということを、心に明記していなければなりません。実を結ぶことが、ぶどう園の目的であるように、愛、忍耐、誠実などが特長となっている生活、また他のすべての美徳がクリスチャンの中に見られるのであります。しかし、この実を結ぶ力は、人の中にあるのではなく、神よりきたるのであります。キリストが言われたように、「わたしを離れては、あなたがたは何もできないから」であります。

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