キリストへの道

第1課 神の愛

 人がいわゆる神ということばを耳にすると、まず第一に、神の怒りにふれることを恐れて、なんとかして神をなだめようとあらゆる努力をしたり、そうかと思うとむやみにありがたがったり、またご利益にあずかるために、いつもきゅうきゅうとしている人間の姿を頭に思い浮かべるでしょう。また、ひとはただばく然と「神とは力があり手のとどかないはるかかなたに存在しているものだ」と考えているようです。しかしこのような神からはたして人は必要な助けを受けることができるでしょうか。どのようにしたら安心立命の境地を見いだしてゆけるでしょう。どんないいことをしたらいわゆる神様というお方は私共に恵みを下さるでしょうか。このように考えていった時、多くの人々はわけがわからなくなって失望し、絶望の底におちいってゆきます。

1. まことの神といつわりの神

 実際人間の創造の中に作り上げられた神が、今日、多くの国々において神として礼拝されていますが、人々はそれらの神々から慰めを与えられるどころか、ゆるぎない平安も、未来に対する希望も与えられてはいないのであります。それでは、神という者は存在しない架空のものなのか、それとも存在していても、もはや、われわれには役に立たないものなのでしょうか。いいえ、そうではありません。そこには何か真実なものがあるのに違いないのです。人間の幸福も、将来の安全も、すべてが確固としたものの上に建てられるはずであります。試練や困難や悲嘆、あるいは失敗の中にあって、折りに合う助けが与えられ、人間を愛し、人間に同情し、人間に必要な祝福をお与えになる、人の創造した神ではない真の神が存在しておられるはずなのです。このまことの神の存在を発見した者の喜びは、また何にもたとえることのできないものなのです。
 古代バビロン帝国は、ネブカドネツァルという専制君主によって支配されていました。王は、その生涯をかけて王国を建設し、敵を配下に屈服させていました。王の勢いは非常に盛んであり、周囲の国々は王の軍隊を恐れていました。
 しかし、ダニエル書2章には、このネブカドネツァル王の礼拝していた神は、「人間と住まいを共になさらぬ神々」(ダニエル書2章11節)であると説明されています。このような神でしたから、王が困難に出あったときにも、かれを助けることができませんでした。結局ネブカドネツァル王はユダヤの青年からまことの神の存在をしらされ、「自分の神以外にはいかなる神にも仕えず、拝もうともしなかったので、この僕たちを、神は御使いを送って救われた。・・・このように救うことのできる神はほかにはない」(ダニエル書3章28,29節)といわざるを得なかったのです。かれの神はあまりにも遠く離れていていざというときには役に立たなかったのであります。
 これに対して、ネブカドネツァルより数世紀以前に生存していたある人は、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」(詩編46篇1節)と絶叫しました。前に比べて何という相違でしょう。かれは、天の神は私たち人間が神に呼び求める時すぐ近くにいまして助けを与えてくださる神であり「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」と申しました。
 まことにして愛なる神はつねに私たちの近くにおいでになって、必要な助けをあたえてくださるのであります。瞑想の聖句は、この神の愛の特質について述べています。神は、どれほど私たちのことを思っておいでになるのでしょう。神の愛は、何をなしたもうのでしょうか。聖句をよく考えながら呼んでみましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。
 人類の不幸は状態をみそなわしたもうとき、神は、人間が必要としているものをお悟りになりました。深いあわれみに動かされて、神は人類を助けようとなさったのであります。み子キリストを人類にお与えになることによって、神は、人間が新しい生活をするために必要な力をお与えになったばかりでなく、永遠にまで続く変わらない幸福を、お備えになったのであります。

2. 神を見いだす方法

ある人はこう言うかもしれません。「私は神様をこの目で見ることができません。あなたがおっしゃるように、私を愛してくださるという、そのようなお方をどうして知ることができるでしょう。神様は天にいらっしゃいますし、私はこの地上に住んでいます。どうしたら神様について、もっと知ることができるでしょう」と。

 a.自然界を通して

 神は、この質問にご自分でお答えになっています。まず詩編19編1節〜3節を考えてみましょう。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても」とあります。
 イザヤ書40章25節、26節を読みますと、この宇宙と、その中にある一切のものを、お造りになったのは天の神であると教えています。「お前たちはわたしを誰に似せ、誰に比べようとするのか、と聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方、それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない。」
 自然と聖書は、神の愛をあかししています。天の父なる神は、生命と知恵と喜びの源です。自然の妙(たえ)に美しいものを見てみてください。また自然が、人間ばかりでなく、あらゆる生物の必要と幸福を驚くばかり満たしていることを考えてみてください。輝かしい日の光、地をうるおす雨、また山、丘、海、平原それらはみな神の愛を物語っています。このようにすべての造られたものの必要を満たされるのは神です。詩篇の記者は、美しい言葉をもって次のように歌っています。
「ものみながあなたに目を注いで待ち望むと、あなたはときに応じて食べ物をくださいます。すべて命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させてくださいます。」と(詩篇145篇15節、16節)
 こうして、大自然を愛し、人は神を認め、驚くべき創造物をながめることによって、神の能力と特性を知るのです。
 創世記第1章を開いて、この地上歴史の最初の一週間の出来事について、記されているところを読んでみましょう。10節に、陸と海の創造について「神はこれを見て、良しとされた」とあり、また12節に、植物の創造について「神はこれを見て、良しとされた」としるされています。この同じ言葉は創造が日を追ってすすめられてゆく間、何度も繰り返され、18節、21節、25節にしるされています。この章の最後に、6日間の創造の働きの総仕上げにあたって、31節には、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」としるされています。
 イザヤは、神の創造の働きについて、多くのうるわしい表現を試みていますが、その短いくだりに、「大地を造り、その上に人間を創造したのはわたし。自分の手で天を広げ、その万象を指揮するもの。・・・神である方、天を創造し、地を形づくり、造り上げて、固く据えられた方、混沌として創造されたのではなく、人の住む所として形づくられた方、主は、こう言われる。わたしが主、ほかにはいない。」
 神は初め、人を完全にきよく幸福なものに造られました。そして、この美しい地球が創造主のみ手に造られた時には、一点の衰えのきざしものろいの影もありませんでした。
 こんなに美しい世界が、いつ、その創造の時の完全な姿を失って、現在のような苦しい、みにくいものになったのでしょうか。
 新約聖書の第6番目の書は、それについて明らかに述べています。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマの信徒への手紙5章12節)。
 「死はすべての人に及んだ」これは、この世界の最初の男と女とが、喜び楽しんでいた完全な至福の状態とは、あまりにもかけ離れたものであります。この父祖たち─アダムとエバが、サタンの欺きによって神にそむき、うるわし家郷に住む権利を失ってしまった悲しい経験については、創世記3章にくわしく記録されています。
 愛のおきてである神のおきてを人が犯したために、死と悩みが生じたのです。けれども罪の結果起った苦しみの中にさえ、神の愛はあらわされています。聖書にも、神は人のために土をのろったとしるされています。(創世記3章17節)いばらとあざみ、つまり、いろいろな困難や試みがこの世の生涯を心配苦労の多いものにしていますが、これは人のためであって、罪のもたらした破滅と堕落から救い出すためには、ぜひなくてはならない訓練として神が定められたのです。世界は堕落したとはいえ、悲惨なことばかりではありません。自然そのものに希望と慰めのおとずれをよむことができます。その証拠にあざみにも花が咲き、いばらも花でおおわれているのです。
 神は愛であるということが、どのつぼみにも、またどの草にもしるされています。かわいい小鳥は楽しい歌声で空気を震わせ、美しい色の花はよいかおりをあたりに漂わせ、森の大木は青々と茂り、それぞれにみな神は優しい父親のようにわたしたちを守ってくださること、わたしたちの幸福を望んでいることを示しています。

 b.神の啓示なる聖書を通して

自然界のうるわしさの中に、神のご品性をたずね、その御愛をたどってゆくことのほかに、天の父なる神の、もっとはっきりとした啓示を見る、もう一つの方法が与えられているということは、さいわいなことであります。聖書を1ページずつ繰るごとに、そこに私たちは神のみ姿を見いだすことができるのであります。
 てんにいまsどもはもはしたました取って教えになりましたましたましたしたりましたしえになりましたということは、、みにくいものになったのでしょうか  神のみ言葉は神のご性質をあらわしています。神自ら、ご自身の限りない愛とあわれみについてお語りになりました。モーセが「どうか、あなたの栄光をお示しください」と言った時に、神はそれに答えて、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ」(出エジプト記33章18節、19節)と言われました。これが神の栄えです。神はモーセの前を過ぎて、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト記34章6節、7節)「忍耐深く、慈しみに富み」(ヨナ書4章2節)「慈しみを喜ばれる」(ミカ書7章18節)ものであると言われました。
 神はさまざまな象徴によって、人間に対する神の愛を、お表しになりました。私たちの上を思いはかっておられることについては父親の例をとって教えになりました。このために私たちは、「天におられる私たちの父よ」(マタイによる福音書6章9節)と、神にむかって呼びかけるのであります。
 しかしここに、神の私たちに対する愛は、母の、その子に対する愛情よりも、もっとやさしい、あたたかいものであるとされています。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない。」(イザヤ書49章15節)と神は仰せられます。
 神は天にも地にも、数えきれないほどの愛のしるしをまき散らして、わたしたちの心をご自分に結びつけてくださいました。自然界のいろいろのもの、または人の心が感じることのできる深い優しい地上のきずなによって、神はわたしたちに神ご自身を示そうとなさいました。しかし、これらは神の愛のただ一部を示すにすぎません。このような証拠が与えられているにもかかわらす、善の敵である悪魔は人の心をくらまし、神を恐ろしいもののように見せかけ、残酷で人を決してゆるさない者、きびしい裁判官か強欲な金貸しのように、厳として動かない者のように思わせています。また創造主をつねに人類のあやまちを拾い上げて厳罰に処している者のように思わせています。イエスが人類の間に住んでくださったのは、この暗いかげを取り除いて神の限りない愛を示すためでした。

3. み父をあらわすみ子キリスト

 神のみ子が天からきてくださったのは、天の父をあらわすためでした。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1章18節)。「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(マタイ11章27節)。弟子の一人が「わたしたちに御父をお示しください」とイエスに願った時、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか」(ヨハネ14章8節、9節)と言われました。
 イエスはこの地上でのご自分のみわざについて次のように説明なさいました。すなわち「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし」(ルカ4章18節)てくださると。これがイエスの使命でした。彼はあらゆるところを巡って良いことをし、悪魔に苦しめられている者をいやされました。こうしてあらゆる病気をいやしながら、村々を通られたので、村中だれ一人、病で苦しむ者がいなくなったほどでした。こうした働きがイエスの神からつかわされたことのしるしでした。イエスの生涯のあらゆる行為には愛と情とあわれみとが見られ、その心は優しい同情となって人々の上にさしのべられたのです。イエスが人となってくださったのも、人間の必要に応じることができるためでした。どんなに貧しい者も、どんなに卑しい者も、恐れなくイエスに近づくことができました。また幼い子どもでさえ彼にひきつけられ、そのひざによじのぼって愛にあふれた物静かなみ顔に見入るのでした。
 イエスは真実をなんの遠慮もなく語ってくださいましたが、そういう時にはいつも愛をもって語られました。また人と交際するにあたっては、いかにも上手に、深い思いやりと細かい注意を払い、荒々しい言葉を用いたり、なんの理由もないのに言葉を鋭くしたり、感じやすい心をなんの必要もないのに傷つけたり、人の弱さを責めたりしませんでした。つねに愛をもって真実をお語りになりました。また偽善、不信、不義を責められましたが、そうした鋭い譴文の言葉をお語りになった時にも、そのみ声は涙にふるえていました。道であり真理であり生命である自分を拒んだ愛する町エルサレムのことを考えて主イエスは泣かれました。人々はイエスを拒んだのですが、イエスは優しく彼らをあわれんでくださったのです。彼は一生の間、自分をまったく捨てて人のために尽されました。イエスの目にはどのたましいもみな尊くうつったのです。彼は神の子の威厳を備えられていましたが、へりくだって、神の家族の一人びとりをやさしく思いやり、どの人を見ても、この罪に落ちたたましいを救うことこそ自分の使命であると思われたのです。
 キリストの生涯はこうした性質のものでしたが、これこそ神のご性質です。キリストのうちにあらわされ、人類の上にあふれ出た天からの愛の流れは、天の父のみ心から出たものです。優しい思いやり深い救い主イエスは「肉において現れ」(テモテへの手紙第一・3章16節)た神でした。

4. 救い主イエス

 長年の間、ユダヤ国民は救い主の出現を待ち望んでいました。彼らは、堂々たる帝王の姿をした人物を想像し、いまわしいローマの軍隊は、彼の力で国外に追い出されてしまうであろうと、期待していました。また、その栄光によって、世の賞賛をほしいままにするばかりか、彼によってユダヤ人は、人類最高の国民となるであろうと、夢見ていたのであります。
 イザヤ書53章3節〜5節の預言に対して、ユダヤ人が盲目であったのは、この間違った希望によるためでありました。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」
 こうした預言書の中に、ユダヤ人は長い間待ち望んでいた救い主を見いだすことができなかったのであります。しかしながら、この世にきたりたもうた救い主イエスは、悲しみの人でありました。
 キリストが地上に生活し、苦しみ、十字架上で死んでくださったのはわたしたちをあがなうためでした。彼はわたしたちが永遠の喜びにあずかることができるように、「多くの痛みを負」う人となられました。神は、恵みと真理に満ちたひとり子を、栄光に輝くみ国から罪にそこなわれ死とのろいに暗くとざされたこの世にくだされたのです。神は、イエスが愛のふところを離れ、天使たちの賛美の声をあとにして、苦しみと恥、無礼、屈辱、憎しみ、はては死をさえ受けることをゆるされました。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(イザヤ書53章5節)。荒野の、ゲッセマネの園の、または十字架上のイエスをみてください。一点の汚点もない神のみ子が、罪の重荷を負い、また神と共にいた方が罪の結果である神と人との間の恐ろしい別離を経験したのです。そして「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書27章46節)という苦しい叫びがそのくちびるをついて出たのです。罪の重荷、罪の恐ろしさ、神から遮断されることなどが神の子の心を砕いたのでした。
 しかし、この大きな犠牲が払われたために、天の神のみ心に人に対する愛の気持をおこさせたのでもなければ、救いたいとの考えを生じさせたのでもありません。いいえ、そうではなく「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛」(ヨハネによる福音書3章16節)してくださったのです。神は、その大きななだめのそなえもののゆえに、わたしたちを愛してくださったのではなく、わたしたちを愛するゆえに、なだめのそなえものを与えてくださったのです。キリストは罪に落ちた世界に神の限りない愛をそそいでくださる仲介者でした。「神はキリストによって世を御自分と和解させ」(コリントの信徒への手紙第二5章19節)とあります。神はみ子と共にお苦しみになりました。ゲッセマネの苦しみ、カルバリーの死を通し、限りない愛をもっている神はわたしたちのあがないの価を払われたのです。
 イエスは「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。」(ヨハネによる福音書10章17節)と言われました。これはつまり、こういう意味です。
 「わたしの父は、あなた方をこの上なく愛していますから、わたしがあなたがたの救いのために生命を捨てたため、以前にもましてわたしを愛してくださいます。あなた方の負債と罪を負って生命を捨て、あなた方の身代り、保証人となったため、わたしは父にいっそう愛されるようになったのです。なぜなら、わたしの犠牲によって神は義であることができると同時に、わたしを信じる者をも義としてくださることができるからです」
 神の子のほかにはだれもわたしたちのあがないを完成することはできません。というのは神のふところにいた者でなければ神をあらわすことはできないからであります。神の愛の高さ、深さを知る者だけがそれをあらわすことができるのであります。
 堕落した人類のためにキリストが払いたもうた限りない犠牲ほど失われた人類に対する神の愛をあらわすことのできるものはありません。
 
5.イエスの賜物は永遠の賜物

 もう一度、瞑想の聖句をふり返ってみましょう。神はそのひとり子を「お与えになったほどに、世を愛された」これは永遠にわたって与えられた賜物でありまた、全人類に対するものであります。この愛から、だれ一人もれるものはありません。ひとたび与えられたイエスは、人類との間に結びたもうきずなを、決してお断ちになるようなことはありません。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」神はキリストを、ただ人の間に生活し、人々の罪を負い、彼らの犠牲となって死んでくださるためにお与えになったばかりでなく、神はキリストそのものを堕落した人類にお与えになったのです。キリストは人類の利害、また必要を人々と共に味わってくださいました。神と一つであったキリストは、人と切っても切れないきずなで結ばれ「彼らを兄弟と呼ぶことを恥」(ヘブライ人への手紙2章11節)とはいたしません。彼はわたしたちの犠牲、また助け主、わたしたちの兄弟です。神のみくらの前に人間の姿をもって立ち、永遠に御自らあがなってくださる人類の一人となられた「人の子」です。これはみな罪の淵から、また滅びから人が引き上げられ、神の愛を反映し、きよき者となる喜びにあずかるためでした。
 わたしたちのあがないのために払われた価、わたしたちのためにそのひとり子に死をさえおゆるしになった天の神の測り知れない犠牲を考えるとき、キリストによってわたしたちは非常に高潔な状態に到達することができるという観念をおこさずにはいられません。霊感に動かされた使徒ヨハネは、滅びゆく人類への天の父の愛の高さ、深さ、広さをながめて、心はただ感謝と敬けんの念でいっぱいになり、その愛の偉大さ、優しさを適当に表現する言葉を見いだすことができないで、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで」(ヨハネの手紙第一・3章1節)すと世界に呼びかけています。人はなんと尊い価値をもっていることでしょう。罪を犯して人の子らは悪魔のどれいとなりましたが、キリストのあがないの犠牲を信じることによって、アダムの子らはまた神の子となることができるのです。キリストは人の性情をおとりになって人類を引き上げてくださいました。罪に落ちた人類は、キリストにつながってはじめて「神の子」という、その名にふさわしい尊い者となれるのです。
 このような愛に比べられるものはなにもありません。天の王子となるというのです。なんと尊いみ約束でしょう。これは深い瞑想に価する主題です。神を愛さなかった人類へのたぐいもない神の愛です。この愛を考えるとき、心はへりくだり、神のみ旨のままに従うようになります。そして十字架の光に照らされて神のご性質を学べば学ぶほど神の恵みとあわれみを知り、神の公平と正義とゆるしとが一つになっていて、放蕩むすこを思いやる母親にもまさる限りない優しい愛の数知れない証拠を認めることができるのです。

第1課 瞑想の聖句

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 瞑想の糸口として、18世紀のイギリスが生んだ名医エドワード・ジェンナーのことを考えてみましょう。当時、天然痘は医学の手に負えない恐ろしい病気の一つでした。老若男女の別なくだれでも感染するし、たといなおっても顔にみにくい跡が残るので、人々は恐れていたのです。ジェンナーはこの難しい病気と取り組んでついに種痘を完成しました。ところが実験台になって種痘を受けようと申し出るものがひとりもありません。そのとき彼は自分の愛する子供を実験に供しました。ジェンナーの心中には、人類の幸せを願う犠牲的な愛の火が燃えていたのです。
 これと比べることはできませんが、今から約2000年前宇宙の支配者である天の神は、言い表すことのできないほどの愛を示してくださいました。神は、み子キリストを犠牲としておささげになったのです。
 「なぜですか」とお尋ねになるでしょうか。この世界の必要に、神はおこたえになったからなのです。人類は救われなければなりません。父なる神は、み子イエスが天の平安をあとにして、地上にお下りになるのをご覧になりました。人類の危機の前に、神は、ご自身の犠牲が大きすぎるとは、お考えにならなかったのであります。
 口に言い表すことのできないこの愛の賜物は、私たちのためでありました。「み子を信じる者」とみ言葉の中にあるように、この世界に住むすべての人々のためでありました。
 悪魔は誘惑をもって襲い、さまざまな方法をもって私たちを、おとしいれようとするでしょう。しかし、私たちには望みがあるのです。神はみ子キリストによって、私たちをお助けになります。キリストによって救いにあずかることができるのであります。比べることのできないこの神の愛の偉大な証拠を、他に見ることができるでしょうか。

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