預言の声聖書講座 第2部 第3課

聖書の中にあるすばらしい真理の一つは、人間の救いを完成するためにキリストがもう一度地上においでになるという約束です。「キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである」(へブル人への手紙9章28節)。これをキリストの再臨といいます。

 キリスト再臨の教義は、聖書の基調です。人類の祖先アダムとエバがエデンの園を悲しみのうちに去って以来、信仰をもった人々は、神の人間回復の計画が実現され、再びエデンの園が与えられる時を希望したのです。キリストの十字架によって、救いの道が開かれ、キリストが昇天なさった時、それを見送った弟子たちに天の使いは「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1章11節)といいました。また来るというキリストの約束は、弟子たちの未来を明るく照らし、彼らの心を喜びと希望で満たし、どんな悲しみや試練の時にもその心を支えたのです。

1.聖書の中の重要な教理

 聖書の中で一番多く取りあつかわれている教理はキリストの再臨です。神学者のヘンリー・シーセンは「新約聖書の中に300回以上すなわち25節にl回の割合でこの真理が語られている」といいました。実際再臨については、他のどの教理よりも多く語られています。

 今から約2000年前に起こったキリストのはじめの隆臨については、旧約聖書に300以上の預言がありましたが、それは皆そのとおりに成就しました。また聖書のそれ以外の預言もほとんど成就しています。残っているのは再臨に関係のある預言だけです。これらもやがて成就することは間遠いないのです。「神は人のように偽ることはなく、また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、語ったことで、しとげないことがあろうか」(民数記23章19節)。再臨は決して人の作り話ではありません。

2.再臨のとき何が起こるか

 キりストの再臨のときに、人間の救いが完成します。人間ははじめにつくられたときのようになり、神との完全な交わリが回復するのです。これが再臨の目的です。再臨のときに何が起こるかを調べてみましよう。

(1)死人のよみがえり

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる」(テサロニケ人への第1の手紙4章16節)。

 罪の結果としてはいってきた死は人間をおびやかしてきました。死の運命をのがれるために、不老長寿の薬をさがした人もありました。死の恐怖を解決しようとしてさまざまな哲学や宗教が求められました。医学も進歩しましたが人間がいつまでも生きることはできそうにありません。しかし本当に人間が死をのがれる道はないのでしょうか。ただ一つの希望は聖書が示しているキリスト再臨の日に、キリストを信じて眠っている人々が死からよみがえるという聖書の約束です。これは罪をゆるされ救われる人にとっては大いなる喜びの日です。死によって別れれていた愛する者に再び会うことができる日です。この時「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(コリント人への第1の手紙15章55節)という勝利の叫びがあがります。そしてキリストが既に復活なさったことは、私たちもキリストによって復活することを保証しています。

「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく聞に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちないものによみがえらされ」(コリント人への第1の手紙15章51節、52節)「それから終末となって、・・・最後の敵として滅されるのが、死である」(同24節、26節)。

(2)生きている者の栄化

 キリストを信じ、罪をゆるされた人で、再臨の時まで生きていた人々は死なないで、肉体はもはや朽ちることのない栄光の体に変えられます。これを栄化といいます。「わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、・・・わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである(コリント人への1の手紙15章51節53節)。「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。彼は、万物をご自分に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう(ピリピ人への手紙3章20節、21節)。

(3)天にあげられる

 「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠つている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう」(テサロニケ人への第1の手紙4章13節17節)。

 よみがえり、また栄化した人々はキリストとともに天にあげられます。「その時、目しいの目は聞かれ、耳しいの耳はあけられる。その時、足なえは、しかのように飛び走り、おしの舌は喜び歌う」(イザヤ書35章5節、6節)。

(4)報いが与えられる

 キリストは「人の子は栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう」(マタイによる福音書16章27節)といわれました。人の子というのはキりストのことです。再臨は報いが与えられる時です。この世の中では善人が損をしたり、悪人が栄えているようにみえることもありますが、神は人間のすべての行動と、その動機まで知っておいでになり、正しい報いをお与えになるのです。初期の教会の有力な指導者であったパウロは「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう」(テモテヘの第2の手紙4章8節)といいました。マタイによる福音書25章にキリストは、「人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、・・・王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人よ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい』。・・・それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ』」(マタイによる福音書25章31節41節)。

 罪を悔い改めた人々は天国に迎えられ、義の冠をいただく喜びに入ろうとしている時、神の恵みを最後までうけいれなかった悪人たちは永連の減びにはいるのです。

 ガラテヤ人への手紙6章7節に「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」とありますが、自由の意志を与えられた人間は、自分の一切の行動について責任をとわれる日があるのです。キリスト再臨の時すべての悪人は滅ぼされます。

3.再臨の状態

 キリストの再臨はだれにも間違いなくわかるように、聖書にはどんな状態で再臨があるかが、説明されています。

(1)すべての人にわかる

キリストの再臨はすべての人に関係のある人類歴史の大事件です。再臨を現実のこととしないで、これに抽象的な意味をつける人もありますが、再臨は他の預言と同じように歴史の現実となってあらわれる出来事です。そこで、すべての人が、惑わされることのないようなはっきリした状態で起こるのです。

 「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、・・・彼を仰ぎ見るであろう」(∃ハネの黙示録1章7節)「ちようど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう」(マタイによる福音書24章27節)。

 キリストのはじめの隆臨の時は、すべての人々にわかる状態ではありませんでした。しかし再臨はどこかの片すみで、人目につかないところで起こるのではあリません。

 キリストの再臨の前に、にせキリストがでて、できれば神を信じた人々をもまどわそうとすることを警告なさってキリストは「だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ。ヘやの中にいる』と言っても、信じるな」(マタイによる福音書24章26節)といわれました。キりストは既に再臨しておいでになるという人もいますが、それはほんとうのキリストではありません。聖書は、「彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう(マタイによる福音書24章31節)。また、「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々がまず最初によみがえり」(テサロニケ人への1の手紙4章16節)と述べています。

(2)栄光の中に

 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来る(マタイによる福音書16章27節)。そのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう(マタイによる福音書24章30節)。

(3)自然界の変動

 キリストの再臨に伴って自然界に大変動が起こります。「天は巻物が巻かれるように消えていき、すべての川と島とはその場所から移されてしまった(∃ハネの望人示録6章14節)。

・・・その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう(ペテロの第2の手紙3章10節)。

 この自然界の大変動の中で、再臨を待望していた者は、キリストとお会いして「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」(イザヤ書25章9節)と叫ぶのです。

 信仰をもたず、悪をはなれなかった人々について聖書は次のように述べています。

 「地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした声そして、山と岩とにむかって言った、『さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか』」(∃ハネの黙示録6章15節−17節)。

4.喜びと希望の時

 苦しみの中にあったヨブは「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。わたしの皮がこのように減ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。しかもわたしの味方として見るであろう。わたしの見る者はこれ以外のものではない。わたしの心はこれを望んでこがれる。」(ヨブ記19章25節27節)といいました。病気や逆境に苦しみながら、十字架によって彼の罪をゆるし、永遠の生命を与えてくだきるキリストの再臨を待ちのぞんだのです。これはヨブの信仰であり希望でした。ヨブはその時、くずれゆく体ではなく、復話した輝く体でキリストにお目にかかるのです。∃ブはその時を待ちこがれました。キリストは私たちを罪より救うために、地上の生涯を送り、生命を与えてくださいました。それはキりストが私たち1人1人を愛してくださったからです。罪を悔い改めキリストを信じた人は、義と認められ永遠の生命に入ることができるのです。私のためにかぎりない犠牲と苦しみをしてくだきったキリストにお目にかかる再臨は、キリストの愛を知った者にとって∃ブと同じように、最大の希望と喜びの時です。


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