預言の声聖書講座 第1部 第10課

イエス・キリストはその少年時代をナザレの村でお過ごしになりました。その当時の簡単な記録がルカによる福音書2章52節にでています。「イエスはますます知恵が加わり、背たけも伸び、そして神と人から愛された」。少年としてのイエスは、やさしい、おもいやりのある性質を示され、いつも喜んで人をお助けになりました。

 イエスは家庭で神の言葉である旧約聖書を学び、その内容に精通なさいました。ナザレの住民は悪いことで有名でしたが、イエスは悪い環境にもかかわらず、罪のない生活をなさいました。骨の折れる仕事や責任を進んでひきうけ、生活の困難をのりこえてゆかれました。このような青年時代が彼の行動力のある強固な品性をきずきあげたのです。彼が救い主としての生活におはいりになる時、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイによる福音書3章17節)という天からの声を聞かれたことは、その準備としての青少年時代が、完全に神にうけいれられるものであったことを示すものです。

1.公生涯(救い主としての生涯)

(1)バプテスマ

 イエスが公生涯におはいりになる前、預言者イザヤの預言にあったように、先駆者があらわれて、人々の心の準備をしていました。それはバプテスマのヨハネという人物です。バプテスマのヨハネは、救い主の来臨が近づいたことを人々に知らせ、彼らが正しい道に立ちかえるようにすすめ、その決心をした人にバプテスマをほどこしていました。バプテスマというのは、神に従う決心を表明するために全身を水につける儀式です。

 ヨハネはヨルダン川でバプテスマをほどこしていましたが、そこにイエスがおいでになって、バプテスマをうけようとなさいました。イエスを見た時、神の子であることを認めたヨハネはこれをとどめて「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたがわたしのところにおいでになるのですか」(マタイによる福音書3章14節)と叫びました。しかしイエスは、「今は受けさせてもらいたい。このように、すべての正しいことを成就するのは、われわれにふさわしいことである(同15節)と答えられたので、∃ハネはイエスにバプテスマをほどこしました。罪のないイエスが、バプテスマをお受けになる必要はなかったのですが、自分を罪人の立場において、私たちのなすペきことをなさったのです。これが公生涯の出発点でイエスの30歳の時のことでした。

(2)奉仕の生活

 キリストの働きについてマタイは「イエスはガリラヤの全地を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった」(マタイによる福音書4章23節)と記しています。キリストの生涯は全く人々の奉仕にささげられた生活でした。キリスト自身も「あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子(キリスト=著者注)がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」(マタイによる福音書20章26-28節)といわれました。

(3)宣教の主題

 「この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、『悔い改めよ、天国は近づいた』」(マタイによる福音書4章17節)。キリストの宣教の主題は悔い改めて、神の国を心の中にたてるということでした。聖書の天国、神の国またはみ国という言葉は二通りの意味に用いられていて、一つは恵みの王国、もう一つは栄光の王国といわれます。神の国は神の主権が承認されているところです。恵みの王国というのは、神に従っている心の状態で、罪を犯している人間が、罪を悔い改めて、神に徒う時、心の中にたてられます。キリストは人々の心の中に恵みの王国をたてようとなさったのです。栄光の王国というのは罪の侵入によって混乱したこの世界を、神が再び完全にはじめの状態にしてくださる現実の天国です。栄光の王国に入るのは、心の中に恵みの王国をもっている人だけです。

(4)模範

「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった(ペテロの第1の手紙2章22節)。キリストは人間の性質をおとリになっていましたが、いつも神にたよって、完全に罪のない生活をなさいました。罪を犯す可能性はありましたが、すベての誘惑に勝利して、私たちも罪に打ちかつことができることを示してくださいました。キリストの生涯は私たちの模範です。

2.十字架

 キリストは3年半の公生涯の終わりに十字架におつきになりました。キリストが「多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」といわれたように、十字架はキリストの生涯の目的でした。あがないというのはキリストの時代には、奴隷としてつながれているものを解放するために、第三者が身代金を支払うことを意味していました。キリストは人間を罪とその結果である死より解放するために、十字架にかかってその生命を与えてくださったのです。十字架上のキリストの死は、人間の身代わりの死でした。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた(コリント人への第2の手紙5章21節)。「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた」(ペテロの第1の手紙3章18節)。預言者イザヤはキリストについて、「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。・・・主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」(イザヤ書53章5、6節)といいました。キリストが十字架という最も苦しい、屈辱的な極刑をお受けになったのは、私たちを永遠のほろびより救うためでした。これは私たちに対する神の深い愛のあらわれです。「神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである(ヨハネの第1の手紙4章9節)。

 キリストの十字架は、キリストの自発的な意志からでたことでした。ヨハネによる福音書10章17、18節に「父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある」とあります。キリストは度々自分の死を預言なさいました。当時ユダヤの指導者たちは、キリストが彼らの期待していたこの世の王国をたてることに興味を示されないのをみて失望し、不満におもい、反抗するようになりました。そしてついにイエスを捕らえてユダヤの最高宗教会議で審判にかけようとしました。人々が捕らえにきた時、キリストは「だれを捜しているのか」といわれました。彼らが「ナザレのイエスを」というと「わたしがそれである」とお答えになりましたが、その時、彼らは、神の子の栄光にうたれて地にたおれました。しかしキリストは進んで彼らの手に、自らを渡され、死刑の宣告をおうけになったのです。聖書をお持ちの方は新約聖書の四福音書の終わりの部分に出ているキリストの十字架に関する記事をお読みになってください。

3.復活

 キリストの生涯は十字架で終わりませんでした。キリストはご自分の死とともに、よみがえりについて弟子たちにお語リになっていました。「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして3日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた(マタイによる福音書16章21節)。そればかりでなくキリストの復活は、旧約聖書にも預言されていたのです。「あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである」(詩篇16篇10節)。キリストの復活は、理性的に考えるならば、信じるのはむずかしいことですが、聖書の記録と、キリストの死後の教会の歴史をみると、復活を信じることには、根拠があることがわかります。その理由を簡単にあげてみたいと思います。

(1)復活は聖書の中に記録されていること

 聖書は神話のようなものではなく、その歴史性が高く評価されている文献です。キリストの復活は、四つの福音書の中に記録されており、また初期の教会もそれが事実であることを認めています。

(2)復活を証言した弟子たちは、証人として十分信頼できること

 証人の資格は、第一に目撃者であること、第二にその数が十分であること、第三に証人が信頼できる人物であることです。

 復活を信じた弟子たちはその目撃者でした。しかもその数は2、3にとどまらず、500人以上でした。コリント人への第1の手紙15章3節から8節までに、初期の教会の有力な指導者であったパウロは、「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、3日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、12人に現れたことである。そののち、500人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである」と書いてあります。このような証言をした弟子たちの人格については、聖書に対して批評的立場をとる人でも、だれも疑問をもった人はいません。

(3)復活後の弟子たちの行動

 イエス・キリストが十字架におかかリになった時弟子たちはキリストを捨てて逃げました。混乱と絶望と恐怖の中で彼らは、家の戸を閉じてかくれていたのです。ところが復活のしらせを聞き、また復活されたキリストにお目にかかって彼らは大きな喜びに満たされました。弟子たちの行動には大きな変化があらわれました。彼らは立ち上がって大胆にキリストの復活を人々に告げはじめたのです。その後起こった火のような追害の中にあっても、生命をかけて確信をもって「キリストはよみがえられた。私たちはその証人である」と断言したのです。イエス・キリストの復活について、いろいろな解釈をする人があります。墓にあったイエスの死体を弟子たちか、敵が盗んだとか、あるいはそれは弟子たちの幻覚であったとか、いろいろありますが、復活前後の弟子たちの行動の決定的な変化を説明することはできません。作家の遠藤周作氏は、その著「イエスの生涯」で最後に「謎」という1章を書いています。その中で復活が歴史的事実であったかということを各方画から考えたあと、「なぜ弟子たちはたち直ったのか。なぜ弟子たちは荒唐無稽な、当時の人々も嘲笑した復活を事実だと主張しつづけたのか。彼等を神秘的幻覚者だとか、集団的催眠にかかったのだときめつけるのはやさしいが、しかしそれを証拠だてるものは何ひとつない。謎はずっしりと重く我々の心にのしかかるのである」と書いています。この謎をとくためには、復活を事実と信じるよりほかにはないのです。

4.昇天、天における働き

 復活後40日たってキリストはオリブ山から天におかえりになりました。その時11人の弟子たちが集まっていました。最後の言葉を残されてから「こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった」(使徒行伝1章9節)とあリます。天におかえりになったキリストは、私たちの罪のとりなしをしておいでになります。すなわち私たちが自分の罪を悔い改めて、キリストの死を信仰によって私たちの身代わりの死として受けいれるとき、私たちを罪のないものとして神の前に立たせてくださるのです。キリストは地上の生涯において人間のあらゆる経験をなさったので、ほんとうの同情と愛をもって、私たちを助けてくださることができます。聖書をお持ちの方はヘブル人への手紙4章14節から16節までをお読みになってください。イエス・キリストは過去の人物ではありません。今なお生きて私たちのために働き、求めるならば喜んで私たちを助けてくださる方です。キリスト教徒は度々残酷な迫害を受けましたが、信仰を守ってくることができたのは、現在生きておいでになるキリストを信じてきたからです。人生のどんな経験の時でも、キリストは助けを与え、平安な道をそなえてくださいます。またどんな困難でものりこえることができる力と勇気を与えてくださるのです。キリストとともに歩む人生は、常に希望に輝いています。

5.再臨

 天にあげられたイエスを見送った弟子たちに、天使は「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」(使徒行伝1章11節)といいました。キリストは救いの計画の完結のために再び地上においでになるのです。この約束は各時代のキリストを信じる人々の希望でした。再臨については第2部でくわしく学ぶことになっています。


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