イエス・キリスト

--その偉大なる生涯--

6 神の国の勲章

 「だから、何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。」

     新約聖書マタイによる福音書7章12節

 世界の名言といわれるものの中に、聖書のことばがたくさんありますが、なかでも、マタイによる福音書五章から七章にわたって記録されているイエス・キリストの説教には、宝石のようにきらりと光り輝く名言が少なからず出てきます。「あなたがたは地の塩である」「目はからだのともしび」「豚に真珠」「求めよ、さらば、与えられん」「狭き門よりはいれ」など、日常会話の中でもしばしば用いられているこうした名言は、今から二千年前、ガリラヤ地方のとある小高い丘の中腹でイエス・キリストがお語りになったものです。

 山上の垂訓とよばれているこの教えは文学的にもすぐれています。荘重で流麗な文体、しかも簡潔で具体的な表現。干からびた論理の積み重ねではなく、想像力をかきたてる生き生きとした絵画的描写。丘の中腹に陣どった群衆ならずとも、いつのまにかそのすばらしさにひきつけられてしまいます。世界の文豪トルストイがイエス・キリストの山上の垂訓を小聖書とよんで愛読したのもなるほどとうなずけるような気がします。

 しかし、山上の垂訓は単なる一片の文学作品ではありません。これは、神の国の大憲章(法則・おきて)なのです。神の国に生まれ変わった人がどのように考え、また行動また行動しなければならないかを明らかに示した神の国のマグナ・カルタ(大憲章)なのです。インドの聖者ガンジーが山上の垂訓をキリスト教の枠であると言ったと伝えられていますが、山上の垂訓ほど人間の魂の奥深くをさぐり、人間の思惟(しい)と行為の根源に深く触れているものはほかにないでしょう。

 人間はひとりで生きているものでありません。また生きられるものでもありません。自分以外の者とのかかわりの中に生きているのです。というより、そのように生きるとき、はじめてほんとうの意味で生きることができるのです。一方では、自分をはるかに越える神様とのかかわりの中に生きていますが、他方では、自分と同じ存在である他人とのかかわりの中で生きています。パウロのことばによれば、「わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者は」はないのです。(新約聖書ローマ人への手紙一四章七節参照)みな他人とのかかわりの中に生きているのです。

 人間が他人とのかかわりの中に生きるとき、そこには、どのように生きなければならないか、どのように行動しなければならないかという問いが生まれてきます。

イエス・キリストが山上の垂訓の中で明らかにされたことは実にこのことでした。イエス・キリストは思惟(しい)と行為の根源を愛という人間存在の最も深いところにおくように教えられました。権威や因習や強制などのような形式的な、また外的なものにそれを求められず、愛というすぐれて人格的、また内的なものに求められました。愛が神の国の憲章であり、神の国の市民の紋章だからです。

 ある日、パリサイ人のひとりがイエス・キリストをわなにかけようとして巧妙な質問をしかけました。神の十戒のうちどれがいちばんたいせつですかとイエス・キリストに迫ったのです。

 「イエスは言われた、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」(新約聖書マタイによる福音書22章37節ー39節。アンダーライン筆者)

 なんと機知にあふれた、巧みな答えでしょう。神の十戒のうち最初の四戒は神様に対する義務を規定していますが、残りの六戒は隣人に対する義務を規定しているからです。もし、どれか一つだけをいちばんたいせつだと答えらなら、その理由を問いただしてやりこめてやろうと待ち構えていたパリサイ人の見えすいた意図はみごとに打ちくだからてしまいました。

 しかし、それだけではありません。イエス・キリストはこの巧みな答えの中で、驚くべき真理を示されたのです。それは、神の十のいましめは、つまるところ、ただ一つのいましめーーすなわち神と人に対する愛のいましめーーに帰するのだということでした。わたしたちが他人とのかかわりの中で生きるとき、そこにはさまざまの関係が生じてきますが、この関係を最も深いところで規定し、律するものは道徳や倫理や法律ではなく、神と人への愛であることをイエス・キリストは宣言されたのです。

 愛の律法

 もちろん、それは律法が無用に長物になってしまったということではありません。

 「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」(新約聖書マタイによる福音書5章17節)

 という宣言のように、神がお与えになった十戒は、過去ー現在ー未来にわたって人間が持つことのできる最高の道徳律です。ですから、イエス・キリストはこの律法をたいせつにされ、地上における日々の生活を通してそれを成就されました。

 イエス・キリストはパリサイ人とは全く異なった方法で律法を成就されました。パリサイ人は外がわにあらわれた行為が律法の字句の命じるところにかなっていればよいと考えていました。ですから、かれらは外面的な行為を規制するさまざまの〈べからず禁令〉を作り出し、それらのひとつひとつを落度なくじゅん守することによって、律法を成就しようとつとめたのです。

 しかし、イエス・キリストは人間の外がわをしばることはできても、心の中まではしばることができないことを知っておられました。心が傾いていないのに、外形だけをととのえることは少しも楽しいことではありません。そこには強制からくる苦痛と、表面だけをじょうずにとりつくろう偽善しかないからです。

 イエス・キリストは、律法の根底に宿っている精神をとり出し、それらの律法がなぜ与えられたかを明らかにすることによって、律法を苦痛と偽善から解放し、その本来の姿にひきもどされたのです。イエス・キリストは神の律法の根底に宿っている精神が、「何事でも人々からして欲しいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(新約聖書マタイによる福音書7章12節)という愛の黄金律であることを教えられました。

 「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言うものは、議会に引きわたさられるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」(新約聖書マタイによる福音書5章21節、22節))

 「 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」(新約聖書マタイによる福音書5章27節、28節)

 殺されたいと願っている人はひとりもいません。ですから、あなたは殺してはならないという戒めが与えられたのです。しかし、イエス・キリストは、「あなたは殺してはならない」という命令が、単なる否定的な禁止の命令ではなく、むしろ「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という積極的な愛の行為への命令であることを教えられました。

 〈殺すなかれ〉という命令は、〈生かしなさい〉という命令なのです。他人を生かそうとつとめるとき、怒ったり、ののしったりすることはできません。傷害や殺人の罪を犯していなくても、心の中にすさまじい憎悪(ぞうお)の念をわき立たせているならば、「殺してはならない」という律法は成就されていないのです。憎悪(ぞうお)の念は他人を生かしはしないからです。

 みだらな情欲の対象になりたいと願っている人はひとりもいません。だれでもあふれるような豊かな愛を願っています。性が愛を伴い、愛が性において開花するとき、わたしたちは「姦淫してはならない」という律法を成就するのです。

 イエス・キリストは神の律法の根底にあるものが愛であることを明らかにされました。それは決してむずかし道学者が説くようなものではありません。それは他者に対する愛なのです。わたしたちはみな他者とのかかわりの中に生きています。一方では神様とのかかわりの中に生き、他方では隣人とのかかわりの中に生きています。イエス・キリストはこのかかわりをささえるものが愛であり、神の国の市民の思惟(しい)と行為の規範が愛の律法であることを、山上の垂訓の中で教えてくださったのです。

 「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『 自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する。愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。」(新約聖書ローマ人への手紙13章8節ー10節)

 なんじの敵を愛せよ

 わたしの知り合いの青年がひとりの女性を愛するようになりました。けれども、青年は愛の喜びを味わいながらも困惑していました。この青年は自分の妻となるべき女性について一つの理想像を心にいだいていたからです。その理想に必ずしも合致していない女性を愛するようになってしまった自分の心の動きの矛盾、結婚に踏み切るためには理想像をきっぱりと捨て切ってしまわなければならない苦痛、そして、結婚生活にはいった場合、そのことがしこりにならないだろうかという危倶(きぐ)の念、青年はいろいろと思い惑いました。どうしてこの女性を愛するようになったのかがはっきりすればおのずと正しい結論が得られるだろうという期待をこめて青年は最初の出会いの場面から回想しはじめました。しかし、いくら考えても、どうしてこの女性を愛するようになったのかわかりませんでした。ただ一つだけはっきりしたことは、彼女をそのあるがままの姿で、容認し、受け入れることができるほど深く愛しているという事実でした。やがて青年はこの女性と結婚しました。

 愛は他者をそのあるがままの姿で容認し、受け入れさせます。理想像と比較してつめたくあしらったり、口うるさくあれこれと条件をつけたりしません。罪深く、誤り多く、愚かな存在がそのまま許され、受け入れられ、愛されるのです。わたしたちが神の国の市民となれたのもひとえに、イエス・キリストがそのようなあふれるばかりの愛をもってわたしたちを包んで下さったからでした。ここに〈なんじの敵を愛せよ〉という命令の根拠があるのです。

 「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」(新約聖書マタイによる福音書五章四三節ーー四五節)

 上杉謙信は宿敵武田信玄に塩を贈ったといわれていますが、イエス・キリストは塩どころか敵を愛するというほとんど不可能に近いことを命じられました。絶対に愛せない存在、絶対にゆるせない存在ーーそれが敵なのに、イエス・キリストはその敵を愛しなさいといわれるのです。

 たしかに、敵は快い存在ではありません。しかし、この人もまた、わたしと同じようにだれかに愛されずには生きてゆけない存在、だれかを愛せずには生きておれない存在であることを知るとき、激しい憎悪(ぞうお)の念は薄らいでゆきます。この人もまた、わたしと同じように神様に愛され、許されているのだと思うとき、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」(新約聖書マタイによる福音書6章12節)と祈らずにはおれなくなります。

 それは、「こんなに耐え忍んでいれば、そのうちあの人も自分のあやまちに気づき、わたしの愛をわかってくれるだろう」というような鼻持ちならない自己義認では決してありません。まして、人さまのことなどどうでもよろしいという利己的な無関心から出た人間疎外の寛容でもないのです。それは、すべての人は愛し、愛される権利を持っていることを認める抱擁と受容の精神なのです。

 「もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。」(新約聖書マタイによる福音書6章14節、15節)

 わたしたちは、かつては互いに敵でした。互いに激しく敵意を燃やし、神に対し手も、人間に対しても敵対していたのです。(新約聖書エペソ人の手紙2章14節ー17節参照)しかし、神様は、「わたしたちが敵であった時でさえ」愛し、許して下さいました。(新約聖書ローマ人への手紙5章10節参照)これによってわたしたちはもはや敵ではなくなりました。和解を得ているのです。

 敵を許し、愛することは、自分自身が神に許され、愛されていることのしるしです。「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」のです。(新約聖書ルカによる福音書七章四七節)しかし、多く許された者は多く愛することができます。愛されたことのない者は愛することを知りません。愛された経験だけが愛することを教えてくれるからです。自分が受けた愛の量に従ってしか、他者を愛せないからです。ですから、わたしたちが敵を愛せるようになるためには、まずイエス・キリストの愛と許しとを豊かに受けなければなりません。そのとき、〈なんじの敵を愛せよ〉という至難事が可能になるのです。

 愛のわざ

 それはちょうど、夜空に照りわたる月が太陽のまばゆい輝きを反映しているようなものです。わたしたち自身は発光体ではありません。自分の力でどんなにつとめてみても敵を愛せるものではないからです。月のように、つめたく、死んでいるのです。しかし、神の愛を受けるとき、その輝きを反映して神の愛のかぐわしいかおりをまき散らしはじめるのです。イエス・キリストはそのことを美しく表現なさいました。

 「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(新約聖書マタイによる福音書5勝14節ー16節)

 もちろん、愛のわざを行うなどといっても、わたしたちに何ほどのことができるわけではありません。わたしたちの周囲には、個人の力ではどうにもならないようなむずかしい問題がたくさんあります。個人の権利を脅かそうとしているあらゆる圧力、どろ沼のような戦争、許すことのできない社会悪、目をそむけたくなるような犯罪行為、わたしたちを取り巻いているこうした問題は、ささやかな愛のわざなど、単なる自己満足にしかすぎないものにしてしまうほど圧倒的です。

 しかし、人間革命を伴わない社会革命は必ず腐敗堕落します。どんなに制度や機構をいじりまわしても、必ず別な形で問題が生まれてきます。制度や機構は人間自身を変えることができないからです。「人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」という愛の黄金律が外がわからの強制によってではなく、内にある愛の発露として実現されるのでなければ、どのような改革も永続することはできません。

 ここに、ささやかではあっても、愛のわざを実践する意味があります。わたしたちは一般的で抽象的な人類愛を望んでいるのではありません。たとえことがらそのものはどんなに取るに足りないことであっても、それがわたしという特定の存在にそそがれた愛のわざであるなら、それは地球ほどの重みを持った行為なのです。愛は単なる観念ではありません。それは、現実に生きている人間を他者とのかかわりにおいて真に生かす具体的な行為であり、またわざなのです。

 トルストイは、「人生論」の中で、愛は未来的なものではなく、現在的なものなのだから、将来に予想されるより大きな愛のわざのゆえに、現在求められているささやかな愛のわざを拒否してはならない、と語っています。それと同じように、見える隣人を愛さなくて、見えない神様を愛することがどうしてできるのでしょうか。見える隣人に愛のわざを行う者だけが真に神様を愛しているのです。

 「『あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしに兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。」(新約聖書マタイによる福音書25章35節ー40節。アンダーライン筆者)

 無限で全能な神のわざに比べるなら、わたしたちのわざなどはほんとうに取るに足らないささやかなものです。また、ささやかなわざしかできません。しかし、神様はそれを喜んで受け入れて下さいます。まるですばらしい偉業をなしとげたかのように。ちょうど親が子供からプレゼントを受け取るようなものです。結局は自分のさいふから出たものです。しかし、親は目を細めて子供の愛のプレゼントを、いや愛そのものを受け取るのです。 

 神様に愛されていることを知った者だけが真に生きることを知ったのです。そのような人にとっては、生きることは愛することであり、愛することが生きることなのです。三十数年の生涯を愛のわざの実践にそそがれたイエス・キリストはわたしたちもまた、そのような生涯にはいってゆくように願っておられます。

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